第32話

 アパートに戻ってくると、﨑里ちゃんはベッドを背に床に座りこみ、膝を抱えて黙っていた。俺は台所で紅茶を入れて﨑里ちゃんの好きなコアントローを数滴垂らし、ブラマンジェと一緒に運んでいった。以前、このコーンスターチで固めるブラマンジェを作ったら意外に好評だったので、それ以降、彼女が来るときにはちょくちょく作るようになっとった。ちゃぶ台に並べると、うつむいて無表情な彼女におそるおそる声をかける。


「﨑里ちゃん、食べん? お昼も食べとらんもんな。少しお腹に入れたら?」


 返事はない。


「な、紅茶だけでも、飲もう?」


 そう言って、俺は紅茶を飲んだ。しばらく見ちょると、﨑里ちゃんが右手を伸ばし、紅茶のカップを取った。ひと口飲む。うつろな表情。彼女のことや、自分に問題があったということを必要以上に深刻に受けとめ、自分を責め続け、もうそれしか考えられなくなっとるんやろう。彼女は透明で滑らかなドームの中に引きこもってしまい、手をかけようにも、つるつると滑ってどうしようもなかった。どうやってこの状況を打破すべきか、さっぱりわからんかった。今は、紅茶がドームの中に届いただけでも良しとしよう。俺はゆっくりと紅茶を飲み下しながら、﨑里ちゃんのいつもよりさらに小さく見える姿を見つめていた。


「なあ、﨑里ちゃん、この前さ、チキンとポテトのパイのレシピ、見つけたんよ。すごく簡単に作れて、おいしそうでさ、今度﨑里ちゃんが来たら作ろうと思っとったん。俺、今から作るけん。﨑里ちゃん、検査で疲れたろ? 休んどってな」


 台所の吊り戸棚からフードプロセッサを取り出し、パイ生地を作る。出来上がった生地を冷蔵庫で寝かし、そのあいだにジャガイモと玉ねぎと鶏肉、それに少量のベーコンを角切りにしてスパイスをもみこみ、そこにみじん切りにした長ネギをたっぷりと混ぜこむ。どうせなら、スープとサラダも欲しいな。魚肉ソーセージがあったので、それとズッキーニとトマトでスープを作った。オクラとシメジを湯がき、ポン酢であえてサラダ風にした。スパイスの程よく染みたフィリングをパイ生地で包み、手のひらサイズのパイを六つ作った。オーブンに入れれば、あとは焼き上がりを待つだけや。ふうと息を吐くと、居間に目をやった。﨑里ちゃんはカップを両手に包み込むようにして、ぼんやりと窓の外を見ている。


「﨑里ちゃん?」

 声をかける。動かない。

「﨑里ちゃん、聞こえとる? なあ、もう少しかかるけんさ、なんなら、少し横になっとったら? ベッドつかったらいいけん」


 まるで聞こえていないかのように動かない。仕方ないので、洗い物を始めた。洗い終わるころに香ばしい香りが漂い始めた。なかなかうまそうだ。﨑里ちゃんの様子を見る。石になったかのように、同じ姿勢で外を見つめ続けている。彼女の隣に行き、腰を下ろした。


「﨑里ちゃん。聞こえとる? なあ、返事して? もしかして、どっか痛い? 﨑里ちゃん、今日も内診があったもんな。なあ、なんか言って? 﨑里ちゃんが元気ないと、俺も悲しくなるわ」


 窓の外に目をやったまま、﨑里ちゃんが顔をゆがめた。でも、泣きはしなかった。そのかわり、呻くように声を絞り出した。


「川野、ごめんね、ごめん。もう、止めよう。私のせいで、川野の時間を無駄にしちゃった。半年も。ううん、高校一年の時から、私の存在が川野の人生を捻じ曲げていたのかもしれない。もう、こんなこと止めよう、別れよう」


 苦し気なその言葉に、動転した。


「﨑里ちゃん、何を言うん?! そげんこと言わんで! 﨑里ちゃんがおらんと、俺、どうしたらいいんかわからんわ」


「だって、私は川野に子供を産んであげられない。川野は子供を作れるってことが証明されたでしょ。女の人と、頑張ればセックスできるでしょ? 他の、きちんと子供を産める女の人を探してその人と結婚しなくちゃ。そうすれば、夢だった自分の家族が手にはいるんだよ? あんなに欲しがっていた子供も、何人も作れるんだよ?」


 うろたえた。


「わかっとるやろ? 俺、同性愛者よ? 﨑里ちゃんとじゃなきゃ、子供を作ること自体、無理やけん」


「私じゃ、川野が何より望んでいる普通の幸せを手にさせてあげられない。今なら、まだ十分間に合う。別の、理解ある女の人を探し出して、その人に子供を産んでもらったらいい」


 俺の方がもう涙ぐみそうだった。ゆっくり息を吸って、吐いて、気分を落ち着ける。


「あのさ、この話、取り合えず、一晩、保留にしよ? 俺も﨑里ちゃんも、少し頭を冷やしたほうがいいと思うん。な、お願いやけん、今日だけは言うこと、聞いて?」


 でも、﨑里ちゃんは俺の言葉が耳に入らないかのように言葉を絞り出す。


「本当はね、最初に結婚しようって言ったときから、もう、ぼんやりと不安に思っていた。自分は子供が産めないんじゃないかって。それなのに、それを秘密にしたまま、今の今まで川野を振り回しちゃった。ひどいよね。本当にごめんなさい。川野の人生を無駄にしちゃったね」


 オーブンがチンと安っぽい音を立てた。とたんに、パイの焼けた香ばしいにおいが部屋中に広がった。


「パイ、焼けたわ。﨑里ちゃん、俺が食べてみたかったパイなんよ。﨑里ちゃんに一緒に食べてもらいたい」


 﨑里ちゃんは暗い顔をしたまま、こちらを見ようともしない。肩が小さく震えているのに気づいた。その両肩をつかみ、軽く揺さぶった。


「﨑里ちゃん、こっち向いて? もしも﨑里ちゃんが本気で俺と別れたいっち言うなら――嫌やけど、そげなこと、考えたくもねえけど――でも、それは、受け入れんといかんのやろう。やけどさ、今日いちにちは、俺のパートナーでおってよ。お願いやけん。今日いちにち、一緒に晩ご飯食べて、一緒に過ごして?」


 その言葉に、無表情のまま、かすかにうなずいた。


「じゃあ、もう晩ご飯にしよ。お腹痛い? 立てる? 大丈夫なら、料理運ぶの手伝って?」


 そう言って立ち上がると、台所に行き、スープを温めてよそう。サラダを冷蔵庫から取り出し、あらびき胡椒を振りかける。最後にオーブンから熱々のパイを取り出し、耐熱皿ごと鍋敷きの上に置く。﨑里ちゃんがお盆に料理を載せ、運んでいく。ちょっと考え、冷凍庫からズブロッカを取り出し、ショットグラス二つと一緒に運んでいった。

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