第31話
あの日から、体のリズムに合わせて月いちど﨑里ちゃんが俺のアパートにやってきていたものの、半年経っても妊娠の兆候は見られんかった。毎回、うまくいっとったわけじゃない。うまくいくのは三回に一回くらいの確率で、俺は新たな劣等感に苛まれとった。﨑里ちゃんはまだ時間はあるのだからと繰り返した。でも、笑ってそう言う彼女の口元は奇妙にこわばっとるように見えて、それは俺へのいたわりと言うよりも、自分自身をなだめているようにも聞こえた。俺は袋小路に追い込まれていくのを感じた。
矢野っちは結婚式以降、ときおり訪ねてくるようになっていたのだが、六月末にやってきたとき、子供ができたと報告してくれた。いつもの居酒屋でおめでとうと言いながら乾杯すると、矢野っちは柔らかな表情に少しだけためらいの色を浮かべて尋ねた。
「﨑里さんとはどうなっとるん? なんか進展はあったん?」
俺を「親友」として扱ってくれる矢野っちやったけど、父ちゃんの出した条件については話せんかった。その話をすれば、いずれ、俺のさらに異常なところのみならず、﨑里ちゃんの事情についても言及せざるを得なくなる。それは避けたかった。
「うん、まあ、ちょっといろいろあって、もう少し時間がかかりそうやわ」
そうごまかした。矢野っちは口元に軽い笑みを浮かべたまま俺のしどろもどろの言葉を聞き、それ以上追及することなくビールを飲んだ。
「そ、それより矢野っち、奥さんをほっといていいん?」
黒木ちゃん、いや、もう黒木ではなかったな、矢野結衣ちゃんや、彼女は京都で矢野っちと二人暮らしをしていた。矢野っちの話によると、もうじき実家にもどり、そちらで出産する予定らしい。
「うん。今はもう、結衣ちゃんの体調も安定したしね。お互い、月に二回くらいは、ひとりの時間を持とうって約束しとるけん。子供が生まれたら、そげん優雅なことは言っとられんようになるやろうけど」
矢野っちのおっとりした声を聞きながら、なんし彼は人生の要となるアイテムをもれなく軽々と手に入れられるんやろう、と羨ましくなった。世の中には、立派に整備された大街道を颯爽と歩む人もおるんやな。それに比べて、なんし俺はこげなんやろう。ただフツーに結婚してフツーに子供を作ってフツーに暮らしていきてえだけやねえ、気づくといつも、ぬかるみに足を取られて途方に暮れちょる。そげん大それたことなんち望んどるつもりはないのに。
その晩は矢野っちを見送るときまでずっとどこか上の空やった。
七月になっても﨑里ちゃんに妊娠の兆候は見られなかった。月初めにやってきた﨑里ちゃんが、中欧からの留学生におそわったというブランボラークなるものを夕食に作ってくれた。ジャガイモのお好み焼きのような料理だった。千切りにした生ジャガイモ、みじん切りのベーコンとキノコそれにたっぷりのマジョラム、本来はそこにすりおろしにんにくを入れ、少量の小麦粉と卵を加えて生地を整え、丸く伸ばして揚げ焼きにするらしい。
「彼女が来日してアレンジしたレシピでは、ニンニクの代わりに、小葱と大葉とシイタケを刻んで混ぜるんだけど、これをカリカリに揚げると、びっくりするくらいおいしいの」
スライサーでジャガイモを千切りにしながら﨑里ちゃんが言った。
﨑里ちゃんのおすすめで、近所のスーパーで買ってきたチェコビール、プラズドロイを飲みながらふたりで焼き立てのブランボラークを食べた。俺は一週間前に矢野っちに会って以来、いまだに鬱屈した気分を引きずっており、﨑里ちゃんはそれにすぐ気づいたようだった。でも、何も言及しなかった。
食事を終え、あと片付けを終え、シャワーを浴びても、俺の気持ちにはどこか埋めきれないうつろなものが残ったままだった。﨑里ちゃんは何も言わない。ベッドを背もたれにして床に足を投げだした俺のそばに彼女も腰を下ろし、しばらくふたりでカーテンの開いた窓を見ていた。すぐそばの国道を走る車のエンジン音がいつもはうるさいほど聞こえてくるのに、その日に限って聞こえなかった。明かりだけが、つーっと尾を引くようにして、つぎつぎと通り過ぎていく。にじんだような明かり。ぼんやりと薄暗い明かり。一瞬だけ射るようにきらめき消えていく閃光。蛍みてえやな。そういえば、最後に蛍を見たんは、もう何年前のことやろ。こっちに来てから見に行ったことなんちなかったけん、高校のころ堅田の小川で見たんが最後か。緑色をひとたらししたような黄色い光のしずく。あれが川面を滑るように飛び交うのを眺めていると、ぞっとするような心持ちがした。
とりとめもない物思いにふけっていたとき、﨑里ちゃんの声が聞こえた。
「川野って、小学生のときに福岡から引っ越してきたんだよね?」
何の話を始めるんやろ、そう思いながら答える。
「小学校二年のときな」
「最初に教室に入ったときのことって、覚えてる?」
古い話を思い出させるなあ、と戸惑いつつ、俺は記憶をたぐる。
「そうな、緊張しまくっとったわ。先生に連れられて教室に入ったら、がやがやしとった教室がいきなり静かになって。自己紹介しなさいって言われて名前を言ったけど、よく考えたらさ、あれって、皆に俺の名前は紹介されるけど、俺にはなにも情報はないんよな。やけん、指定された席に座っても、隣の子も前の子も後ろの子も、誰が誰なんか全然わからん。座って、身じろぎもできんまま、前を向いとった。でも休み時間になったら、隣の男ん子が友達を連れてきてしゃべりかけてくれた。どっから来たん? 家、どこな? 福岡って何弁? 兄弟おるん? そん時のひとりが……首藤や」
横目で﨑里ちゃんを見る。彼女はこちらを見て首をすくめる。
「そっか、小学校の時からの友達だったんだね、首藤くんって」
「そこまで仲よくはなかったけどな」
「でも、初日からみんな、話しかけてくれたんだ。さすが小学生だね」
「あーそうよな。小学生だったからっちゅうのが、大きいやろな。ごめんな。﨑里ちゃんのとき。二日間だれもしゃべりかけらんで。辛かったやろ?」
﨑里ちゃんは首を傾げた。
「今となっては、はっきりと覚えていないの。あのときは、全てが初めてだったから。家にはお父さんもお母さんもいなくて、初めて一緒に暮らすおばあちゃんだけ。初めて住む家。初めて住む町。聞きなれないことば。日の出と日の入りの時刻が川崎とずいぶん違うのにも、最初は戸惑ったよ。そんなことで頭がいっぱいだったから、クラスに溶け込まなきゃっていう焦りも、むしろそれほど切実じゃなかったのかもね」
「そういうもんかな。俺は福岡からやったけん、言葉も環境も比較的近くて、そういう戸惑いはなかったな。しかも父ちゃんがおったしな。俺もばあちゃんとは初めて一緒に暮らしたけど、料理上手で、すぐに一緒に料理するようになって、打ち解けたわ」
﨑里ちゃんが微笑みながらこちらに向きなおった。
「おばあちゃんって、どんな人だったの? どんな料理が得意だったの?」
「そうなあ、あの父ちゃんの母ちゃんとは思えん、しゃべり好きで陽気な人やったな。むしろ母ちゃんに近かったかもな。やけん、ちっとも寂しくはなかったんよ。ああ、でも、料理の基本は、母ちゃんよりきっちりしとったかもしれん。そこは世代の違いかな。魚のさばき方とか煮つけ方とか、豆の炊き方とか、あと、包丁の研ぎ方とか、まな板の手入れ方法とかも教えてもらったなあ」
「川野、魚の煮つけを作るの、上手だったもんね。うちのお父さんもおいしいって誉めてたし、私も川野のホゴ(カサゴ)の煮つけを食べて、初めて魚をおいしいって思ったもん」
そういや、そげなこともあったなあ。あの、衝撃の春の日やな。真剣な表情でホゴの煮つけと格闘しとった﨑里ちゃんを思い出して、ほほえましくなった。
「ああ、あとな、野草を取ってきて調理するのも、ばあちゃんに教わったわ。うちの母ちゃんが以前食わしてくれた、サド(イタドリ)の油炒め、覚えちょる? あれは母ちゃんが小嗣のばあちゃんから教わった料理や。春になると、ばあちゃんと朝からサド取りに行って、そのあと半日がかりで前処理しよったなあ。ふふ、懐かしいわ。あれ、ニンニク醤油に漬け込んでも、旨いし、保存もきくんで」
「そうなの? じゃあ、来年は作ろうよ」
「いいなあ。でも、こっちじゃ、たぶんそげん取れんけんなあ、春に向こうに行けたらかな。そうなあ、ツクシも意外といけるんよ。それに、ゼンマイやワラビも、ばあちゃんのとっておきの場所があったなあ。ツワブキもさ、あの鮮烈な香りをかぐと、春やなあって思うで――」
しんみりとした声が聞こえた。
「――川野、泣かないでよ」
はあ? 何言っちょるん? そう思った瞬間、生暖かなものが頬を伝った。
「なん……これ?」
慌てた。いけん、﨑里ちゃんに気を遣わせてしまう。ティッシュで頬と目元をごしごしとふき、横目でちらりとうかがうと、苦しそうな顔でこちらを見ている彼女と目が合った。なんしそげん辛そうな顔をしちょるんやろ? 﨑里ちゃんが無理に笑顔になった。何かを吹っ切るように口を開く。
「川野、一緒に病院に検査しに行こう」
「なんし?」
「念のためだよ。私たちが子供を作り始めてからまだたった半年で、しかも、毎回うまくできていたわけじゃない。だから妊娠できないのも当然かもしれない。だけど、念のために検査をして、ふたりとも体には問題ないとお墨付きをもらっておいたら、のちのちの安心につながるでしょ?」
気が進まんかった。病院で何を強いられるのかを考えると本当に気が重くなった。でも、彼女の言う事には一理あった。だから俺たちは八月の検査を予約した。
九月に不妊検査の結果を聞きに再び病院を訪れた。ロータリーから正面玄関に向かう俺たちの前をハクセキレイがとことこと横切っていった。
俺には問題は見つからなかった。﨑里ちゃんには見つかった。その場で追加の検査も行われた。かつて腫瘍で片側卵巣の摘出をしていた彼女だったが、残った片側の状態も良くなかったらしい。子宮の状態も芳しくなく、自然妊娠はかなり厳しいと告げられた。
そうか、そうやったんか。たとえ結婚したとしても、俺たちふたりには子供はできん可能性が高かったんやな。その宣告はどうしても埋められなかった心のうろにすぽりと収まり、俺は自分でも不思議に感じるほど、穏やかな気持ちになった。しょせん、俺の人生やもん、こういう結末に終わることを俺はどこかで予期し、判決が下されるのを待っちょったんかもしれん。不妊治療に進むかと問われ、﨑里ちゃんが無言のままこちらを見た。その目のあまりの暗さに驚き、考えさせてくださいと答えると、﨑里ちゃんの手を引っぱるようにして、すぐに病院を後にした。
* * * * *
プラズドロイについて
プラズドロイは日本ではウルケルというドイツ語名で親しまれている、チェコを代表するビールです。正式名称はプルゼニュスキー・プラズドロイ、「プルゼニュの源泉」という意味で、プルゼニュとはチェコの地方都市名です。このプルゼニュはドイツ語でピルゼン、そう、あのピルスナービールのピルゼンです。プルゼニュで生まれたプラズドロイは、ピルスナービールの元祖として、世界中で愛されています。
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