第30話
エントランスでの自由歓談は夜七時頃からばらばらと人が減っていった。両家の親族は早々に引き上げ、大浴場やサウナを楽しんでいるようだった。新郎新婦を囲んで同級生四人と黒木ちゃんの同僚三人の合計九人でしゃべったり飲んだりしとったが、八時を少し回ったころ、美羽が温泉に入りたいと言い出し、黒木ちゃんの同僚三人もそれに賛同し、﨑里ちゃんと黒木ちゃんもじゃあ行こうか、ということになって、その場はいったんお開きとなった。
「ここの温泉、結構評判いいらしいで。飲みすぎる前に俺らも行こうぜ?」
わずかに顔の赤らんだ村居っちが俺と矢野っちを誘う。焦った。
「お、俺は止めとくわ。あんまり温泉とか好きじゃねえし、それに、もう、ちょっと飲み過ぎたけん。村居っち、矢野っちと行ってきたらいい」
「えー、そうなん? じゃあ、矢野っち、一緒にひとっ風呂行こうか。でも、章、どうする? 俺らが出てきたらまた飲み直す? 美羽のやろう、絶対にまだ飲むって言うぞ? ははは、あいつ、ざるやけんな。特に日本酒飲ましたら底なしや。黒木ちゃんも、意外と強いよな。それに黒木ちゃんの同僚のみやびちゃんとみかるちゃん? 彼女らも相当お酒好きそうやったわ。風呂上がりにここに戻ってくると見た」
村居っち、いつのまに黒木ちゃんの同僚たちと下の名前で呼び合う仲になっとるん? 美羽と今どういう仲なんか知らんけど、場合によってはしばかれるぞ。そう思っちょると、村居っちが意味ありげな目でこちらを見て笑った。
「章、おまえ﨑里さんとどうなっちょん? 今日、同じ部屋なんやろ? 俺びっくりしたわ。やっぱり、そうやったんかってな。ええ? いつそげな仲になったん? 高一のときって、やっぱ、付き合っちょったっちこと? 高二んとき、﨑里さん、首藤と――」
矢野っちがのんびりとした口調で遮った。
「川野くんと﨑里さん、そこまでお酒に強くないもんな。無理せんでいいよ。お風呂の後は飲み足りん人だけでゆっくり飲むことにしよう? 村居くん、いい日本酒もあるけん、楽しみにしちょって。さ、行こう。ここの露天風呂、気持ちいいよ」
いつものおっとりとした笑みを浮かべている。
部屋に戻ると誰もいなかった。しっとりと落ち着いた調度品からほのかに上品なお香の香りがする。部屋の右手に備え付けられたクローゼットを開け、ボリュームのあるバスタオルと室内着を取り出す。クローゼットの左奥に﨑里ちゃんのモスグリーンのパンツスーツが吊るされているのが目に入った。手前のベッドの上には小さなハンドバッグとポーチが転がっちょる。タオルと室内着を手にしたまま、奥のベッドに腰を下ろした。自然とため息がこぼれる。やっぱり俺はひとりで泥の中に座っとるんやろうか。気を張りながら少しだけ口を付けたアルコールが、神経のささくれにしみちょるような気分やった。膝の上に両肘を付き、手で頭を抱え、目をつぶる。ゆっくり深呼吸をする。一、二、三、四、五。目を開き、のろのろと立ち上がって部屋の浴室に向かった。熱いシャワーを浴び、体中を洗ってしまうと、内側からしみ出して体中を覆っていた黒いもやもやとしたものが、少しだけ洗い流されたような気になった。
風呂から出ても﨑里ちゃんはまだ戻ってきちょらんかった。少し考えて、いただいた引き出物の紙袋の中からお酒の瓶を取り出した。ラフロイグの十年もの。矢野っち夫妻が出席者たちに渡した引き出物には、ひとりひとりの趣味に合わせて、お酒やお菓子などを入れてくれちょるのを知っとった。なして俺にはウイスキーやったんかは、よくわからんけど。封を切り、部屋に備え付けの白い小さなコーヒーカップに注いだ。薬箱を開けたような独特の香気が広がる。しばらく香りを楽しみ、それから少量を口に含んで鼻から抜ける香りを堪能して飲み下す。あの日、うちの家族みんなで乾杯したラガヴーリンより、くっきりと鮮烈な味わい。頭の中にあの日のみんなの笑顔が思い浮かぶ。﨑里ちゃんの華やかな笑顔、母ちゃんの柔らかな笑顔。くるみと遼平くんのはじけんばかりの笑顔を思い出したところで、何の屈託もなく微笑みあうふたりの姿がまざまざと脳裏に浮かび、それは黒木ちゃんと矢野っちの笑顔とも重なり、やるせない気分になった。そして父ちゃんの苦し気にゆがめられた顔。思わずもう一口ラフロイグを口に含んだ。
コーヒーカップに三分の一ほど注いだラフロイグがなくなりかけたころ、ガチャリとドアが解錠され、﨑里ちゃんの姿が現れた。左手に風呂道具の入ったバッグを持ち、もう帰っていたんだ、と目を見張った。頬がピンク色に上気している。
「矢野くんや村居くんと、もうしばらく飲んでいるものだと思ってた」
バッグから濡れたタオルや化粧品を取り出しながらそう言い、サイドテーブルの上に置かれたウイスキーのボトルを見て、眉をひそめた。うかがうように上目づかいで見る。
「なにも、ひとりで飲まなくてもいいんじゃない?」
俺は笑って言った。
「﨑里ちゃん、一緒に飲んでくれん? 少しなら飲めるやろ?」
﨑里ちゃんは無言でこちらを見た。しばらくして、少しなら、とつぶやき、俺と向かい合うように自分のベッドに腰かけた。俺はもうひとつのコーヒーカップにほんの少量、ラフロイグを注ぎ、手渡した。﨑里ちゃんがカップに鼻を近づけ、左手で香りを鼻に送る。目を丸くした。
「うわ、すごい香りだね」
「ふふ、すごかろ? 昨年、うちの家で飲んだんより、スモーキーな香りやろ?」
「え? スモーキー? そうね、スモーキーというより、これはクレゾール臭だよね、消毒薬の。体の中がすっかり消毒されそうだよ」
「消毒か、はは、そうやな。まさに俺にぴったりかもな」
﨑里ちゃんは口をつぐんだ。ラフロイグのカップを両手で抱え、香りをかいでは、ときおり口に運ぶ。自分の子供じみた言葉がちょっと恥ずかしくなった。
「温泉、気持ちよかった?」
うつむいていた﨑里ちゃんが目を上げる。
「うん、美羽ちゃんと黒木ちゃんが、すごくはしゃいでた。黒木ちゃんの同僚の子たちも楽しそうだった。子供みたいに泳いでたよ。露天風呂も、夜空がきれいだった」
「そうか、よかったな」
﨑里ちゃんが口角をきゅっと上げ、いたずらっぽく言った。
「ねえ、美羽ちゃんと村居くんって、付き合わないのかな? 村居くん、何か言ってなかった? 黒木ちゃんが気にしてたの。でも美羽ちゃんは笑ってごまかすばかりで」
「村居っちは、なんも言っちょらんかったわ。あ、違う、美羽はざるや、って言っちょった。つまり、もう何度か一緒に飲みに行っとるっちことやな」
「そうなんだ。あのふたり、高校卒業するまでずっと良い雰囲気だったのに、付き合ってはいなかったみたいなの。友達どうしでいるのが心地よいのかな?」
「どうかな。村居っち、いいとこまで詰め寄れるのに、あと一歩を踏み出すのがへたくそやけんな。美羽は、イケイケに見えて、実は恋愛には臆病そうやし。﨑里ちゃん、その強引さを少し伝授してやったら?」
﨑里ちゃんは目を細めた。
「強引じゃないよ。合理的なの。私には恋愛ってよくわからないから」
「――竹史以外の場合は、ってことな」
﨑里ちゃんの顔がこわばった。すぐに我に返って謝った。
「ごめん、つい、ごめん……」
おろおろする俺を硬い表情で見ていた﨑里ちゃんがふっと肩を落とした。
「ごめんね、川野。なかなか思ったとおりにはいかないものだね。こんなに苦しめることになるとは思わなかった」
そう言うと、空になったカップを手に立ち上がる。
「もう、寝よう?」
俺も立ち上がり、﨑里ちゃんの手から空のカップを取り上げサイドテーブルに置くと、彼女を抱きしめた。
「川野?」
小さくため息をついた。
「どうしたの? もう休もう?」
俺は抱きしめる手を緩めなかった。ラフロイグのおかげでずいぶん感覚が鈍っていた。とはいえ、その手はかすかに震え、うまく気持ちを紛らわせていなければ、すぐにむずむずとした気味悪さが指先から這い上ってきそうになった。気持ち悪い。﨑里ちゃんの男の子のような頭に顔を寄せると、爽やかなシャンプーの香りがして、少しだけ気がそれた。
「﨑里ちゃん、セックスしよう」
腕の中から答える声は聞こえない。
「﨑里ちゃん……」
小さな、でもきっぱりとした声が言う。
「川野、まだ何ひとつ準備していないのに? 勢いに任せたって、うまくいくとは思えない」
俺は腕を緩めず、﨑里ちゃんの耳元でささやく。
「でもな、﨑里ちゃん、すべてが理詰めで成功するわけやないんよ。準備も馴れも、確かに大事や。でも、それと同じくらい、俺にとっては勢いも大事なん――勃たんかったら、できんし」
一呼吸おいて、小さな声で﨑里ちゃんが言った。
「今なら、できそうってこと?」
うん、と言うと、﨑里ちゃんはまた沈黙した。でも、腕の中でこわばっとった体の力がすっと抜けていくのを感じた。ぽつりと言った。
「わかった。川野がそういうなら、やってみよう。でもね、ひとつお願いがある」
「なん?」
「私の名前を呼ばないで。私のことは――たすく、って呼んで」
たすく、
「なんし……」
﨑里ちゃんはうつむいて言った。
「勘違いしないで、川野のためじゃない。私を守るためなの。セックスは嫌いだって言ったでしょ? 正しくは、セックスが嫌いんなんじゃない。自分がセックスしていると認識させられることがおぞましいの。だから、川野が私を抱いているとき、私を私と認識させないで。私は川野が大事で、川野が喜ぶことをしてあげたい。そう強く思ってる。川野と結婚したいし、川野との子供も欲しい。だから、川野が今セックスをしたいというのなら、応えたい。でも、私のことも考えて? お願い、私の名前を呼ばないで。矢野くんの名前で呼んで」
目をそむけたまま、どこか突き放したような口調だった。
彼女はセックスをする自分が嫌いというより、自分自身が嫌いなんじゃないか? 思い当たることはこれまで何度もあった。会話をしているとき、話題が﨑里ちゃん自身のことに向かおうとすると、露骨に話題をそらしていた。切ない気持ちになった。
「わかった。名前は呼ばん」
﨑里ちゃんが目を上げた。
「川野は? 川野のことは何て呼んだらいいの? あきら?」
俺は顔をしかめた。
「それはやめて。親に呼ばれているみたいで萎えるわ」
﨑里ちゃんがかすかに口元を緩めた。微笑みというより、泣き出しそうにも見えた。
「じゃあ、川野くん、ね」
ジェットコースターで遠心力や重力に翻弄されたときのように、気持ちよいのか吐きそうなのか、よくわからない感覚に陥った。
「川野くん、抱きしめてもいい?」
「……いいよ――たすく、たすく……」
そう口に出した瞬間に起きた自分の体のあからさまな変化に、言葉の持つ重みを痛感した。
翌朝、﨑里ちゃんを押し倒そうとしたあの夜の翌朝以上に、彼女の顔が見られんかった。川野はわかりやすいね、それじゃあ昨晩何があったのか、これまでどういう関係だったのか自分から言っているのも同然だよ、浴室から出てきた﨑里ちゃんがそう言って笑った。
「でも、﨑里ちゃん」
俺はそっぽを向いたまま尋ねる。顔が熱い。きっと真っ赤なんやろう。
「もし、妊娠できたら大学院はどうするん? 博士課程への進学、決まっとるんやろ?」
横目でうかがうと、﨑里ちゃんは肩をすくめて言った。
「妊娠が分かったら、時期をみて休学するつもり。研究で薬品を使うからね」
「子供、生まれたら?」
﨑里ちゃんは首を傾げた。
「それね。どうしようか? お父さんはあてにできないし、ひとりで育てるのは難しいよね」
考え込む﨑里ちゃんに目を向けて、言った。
「俺が、川崎で仕事探そうか?」
﨑里ちゃんが目を上げる。
「本気?」
「本気」
もしも﨑里ちゃんとの間に子供ができ、その子供を彼女が腹で九か月間育て、命がけで産んでくれるのなら、その後は俺ができる限り育児をしなければいけない、いやむしろ、そうさせてもらいたいと思っていた。俺だって、誰かのかけがえのない存在になりたい。
﨑里ちゃんが穏やかな微笑みを浮かべた。
「それなら、一気に心強くなった。早く妊娠するといいね」
﨑里ちゃんは屈託のない笑顔を浮かべ、俺はまた顔が赤らむのを感じた。
でも、うまくはいかなかった。
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