第27話
目が覚めると、まだあたりは真っ暗だった。ベッドに起き直り、目を凝らす。﨑里ちゃんは布団で眠っとる。起こさんようにそっと部屋を抜け出し、シャワーを浴びた。昨日とはまた別のあれこれで頭の中は混乱しとった。しばらく落ち着けそうにもなかった。
自分の部屋に帰る気にはとうていなれんかったんで、朝飯を作った。炊飯器をしかけ、いりこで出汁を取って長ネギとナメコの味噌汁を作り、大葉とベーコン入りの卵焼きを焼き、柚子胡椒を利かせた大根と塩昆布の浅漬けを作った。浅漬けを鉢に盛っていると、背後に気配を感じた。﨑里ちゃんやった。
「おはよう、ずいぶん早くない?」
俺は﨑里ちゃんの顔をまともに見られず、盛り付けをしながら言った。
「洗面所空いとるけん、顔洗うなりシャワー浴びるなり、してきて?」
うん、ありがとうと言いながら気配が消え、俺はほうっとため息をついた。
朝食を作り終えてしまい、手持無沙汰のあまり鍋を磨いていると、﨑里ちゃんが出てきた。台所の入口でこちらをうかがっている。初めてうちに来た時も、こげん感じで玉のれんのあたりに立ってこっちを見とったっけ。俺は目を上げずに言った。
「ふたりで朝飯食べてさ、ちょっと外に行かん?」
「どこに?」
「学校」
「学校?!」
「自転車、二台あるけん」
﨑里ちゃんの顔を見た。にっこりと笑ってくれた。
「いいね。どうせなら、いますぐ行こうよ!」
俺も笑った。
「今すぐやと、ちょっと早すぎるわ。まだ真っ暗やもん。やけん、ご飯食べて?」
朝七時、ようやく白み始めた町中を二台の自転車で高校に向かう。河口にかかる大橋を渡って市街地に入り、すっかりさびれたアーケード街を抜けて左手に折れると、正面に白山が迫る。学校は突き当りの左手だ。
学校と白山のあいだにある駐車場の隅っこに自転車を停めた。二人で歩き始める。
「どこに行くの?」
﨑里ちゃんが聞いた。
「展望台」
白山の山すそを縁取るように土塀が連なり、その奥には前栽を有する古色蒼然とした武家屋敷が立ち並んでいる。その趣ある家並みの隙間を縫うように白山へと向かう小道があった。複数ある公式の登山口から離れ、整備もされていない、けものみちのような細い山道だ。そこを登っていくと、十分足らずで開けた小さな台地に出た。生い茂るスダジイの枝の隙間から眼下に高校のプール棟と弓道場が見えた。﨑里ちゃんが目を見張っている。
「こんなとこ、あったんだ。白山の登山道はAコースからDコースまでしかないって聞いていたけれど?」
「知らんかったやろ? ここ、もうほとんど使われちょらんけんな。公式にはないことになっちょるし。中学生の時、友達と白山の探検をしよって偶然見つけたんよ」
何をしようというわけでもない。ただ、すべての起点となったあの弓道場とプール棟の教室をもう一度眺めたかった。しばらく眺めていたそのとき、紗幕がするすると上がるかのように町にみるみる彩度がよみがえった。学校にも燃え立つような朝日が差し、弓道場に残っていた薄闇は一掃され、プール棟の二階の窓はガラスナイフのようにぎらりと鋭く輝いた。
弓道場もプール棟も六年という時の経過を感じさせなかった。どこか、ぽかりとあいた時のよどみに落ち込んで、そのまま眠っているようだった。あの二階の窓から、﨑里ちゃんがこちらを見つめるかもしれない。長い三つ編みの端を指先でもてあそびながら。その視線の先で“袴の彼”が弓を引いているのかもしれない。
ハクセキレイが鋭い声をたてながら緩やかな波を描いて飛んで行った。
並んで見つめていた﨑里ちゃんがつぶやいた。
「川野と竹史さんが弓を引くところを見たいな」
「竹史さんって? 父ちゃんのほう?」
「うん」
少し考えて、言った。
「父ちゃんをその気にさせるんは難しいやろな」
﨑里ちゃんが俺に向きなおり、大きな目でこちらを見た。
「川野はやってくれるってこと?」
すがるようなまなざしに一瞬たじろぎそうになるが、目をそらさずに言う。
「今すぐは無理やけど、もう一度、始めてみてもいいかもしれんっち思っちょる」
﨑里ちゃんが柔らかに微笑んだ。その安らかな表情を見ていると、なんだか泣きたくなった。
父ちゃんから、﨑里ちゃんが妊娠したなら、そのときに結婚に賛同すると言い渡された。でなければ、手段や可能性があるというだけでは認められん、と。うろたえた。
「父ちゃん、普通は順序が逆やねえ? できちゃった婚なんて、それこそ祐介さんに失礼やろ? 結婚してから子供ができるよう努力するんじゃあ、何で駄目なん?」
父ちゃんは目を上げずに言う。
「章、おまえは俺と同じじゃ。普通の男じゃねえ。跡継ぎができるっちゅうことだけは、何が何でも確定させとかんといけん。あやふやな状態で祐介にお前を勧めることなんて、俺にはできん」
独り立ちした子供の結婚に対して親にどんな権限があるんよ、勝手にさしてもらうわ、父ちゃんに詰め寄り、捨て台詞を吐きたくなったが、その顔が苦し気にゆがめられているのを目にすると、腹の底がすうっと冷え、何も言えなくなった。そうやな、確かに、俺も父ちゃんもフツーじゃない。フツーの人たちと同じように結婚できるなんて思うんがおこがましいんかもしれんな。父ちゃんはもう三十年以上前に、同じ理由で祐介さんを諦めたんかもしれん。いや、同じ理由じゃねえな。﨑里ちゃんと俺にはまだ可能性があるけれど、祐介さんと父ちゃんには、可能性はなかった。
﨑里ちゃんが静かに言った。家を継ぐという名目はさておき、川野は子供が欲しくてたまらないんでしょ? それなら、作る努力をすること自体に、異論はないんじゃない?
でも、セックスを嫌悪する彼女と、人と肌を合わせられない俺とで、どうやったらフツーに子供が作れるっちゅうのか。お互い気づまりなまま年を越した。
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