第26話

 﨑里ちゃんを俺の部屋で寝かせたあと、俺は父ちゃんと二人で黙って居間に座っとった。ラガヴーリンを少し注ぎ、舌の先に乗せてしびれるのを楽しむ。脳裏には竹史に抱きしめられる﨑里ちゃんの姿が焼き付いていた。わかっていたことやった。だって、彼女は高校一年のころから、竹史が好きやった。小嗣こつぎ竹史――いや結局は川野竹史だ――を一途に求め続けた。俺はしょせん当て馬や。この家に、竹史に近づくための口実や。そう考えたとき、矢野っちのことが思い浮かんだ。――同じやないか。俺だって、矢野っちに近づくために、何度﨑里ちゃんをだしにつかったことか。お互いさまや。

「章」

 父ちゃんが低い声で言った。

「裕佳子ちゃんを責めるな」

 その言葉に、収まりつつあった怒りにも似た当惑の波が、勢いを増して再び押し寄せてくる。こわばった舌を動かし、絞り出すように言う。

「父ちゃん、母ちゃんに対する裏切りやないん?」

「母ちゃんは知っとる」

「え?」

「もうずっと前、再同居してすぐ、母ちゃんには裕佳子ちゃんの小嗣竹史への気持ちを伝えた。ただ、俺が伝えたときには、すでに母ちゃんは裕佳子ちゃん本人から聞いとった。それからずっと、あの子は、自分を押さえようとあがいとった」


 知らんかった。そうやったんか。俺をだしにして、だまし討ちにして、竹史を得ようとしとったわけではなかったんか。恥ずかしくなった。再燃しかけていた胸中の炎の分だけ激しく、慙愧の念と憐憫を感じた。


「踏ん切りをつけられるタイミングを探しとったんやろうな」

 そう言うと、グラスをあけ、それを持って流しに向かった。

「もう寝る。おまえもいい加減休み」

 父ちゃんが出て行ったあと、俺もグラスのウイスキーを飲み干し、グラスをすすぐと二階の部屋に上がった。


 部屋は明かりが消えとった。でも、﨑里ちゃんは眠っとらんかった。向こうを向いて膝を抱えるようにして泣いとった。部屋に戻って、あれからずっと、ひとりで泣いとったん? 竹史を、竹史を思って?


 その途端、強烈な衝動に突き動かされた。


「﨑里ちゃん、泣かんで。もう泣かんで」

 﨑里ちゃんの左に座ると右肩を引き寄せ抱きしめた。

「川野?!」

 﨑里ちゃんが息をのむのが分かった。きつく抱きしめる。﨑里ちゃんを父ちゃんの亡霊には渡さん。俺がこの世にきちんと引きとどめる。

「﨑里ちゃん、もう、竹史じゃなくて、俺を見て」


 もう一度、抱きしめる腕に力をこめたあと、彼女を押し倒してズボンに手をかけようとした。﨑里ちゃんは一瞬震えて身をこわばらせると、わななく俺の手を押さえ、しゃくりあげながらささやいた。

「今は、止めとこう? トラウマにしたくないでしょ?」

「どういうこと?」


 﨑里ちゃんは起き直り、手の甲で涙をぬぐうと、俺の頭を、そして頬をそっと撫でた。俺は身じろぎもせず、﨑里ちゃんの目を見つめていた。その瞳が大きくなり吸い込まれると感じたそのとき、一瞬、唇に柔らかなものを感じた。再び、﨑里ちゃんは俺を見つめた。眉をきゅっと寄せている。


「川野、気持ち悪くないの? だったら、川野は今かなり酔ってると思うよ。お酒の力で感覚が麻痺してるから、こうして触れ合えているんだと思う。でも、それだけ酔っているということは、逆に、その先はうまくいかない可能性が高い。ここでうまくいかなかったら、たぶん、そのあとそれを克服するのは大変だよ」


 その言葉の重みを理解できんほど、酔っとりはせんかった。憮然としてうなだれた俺を見て、﨑里ちゃんはさらに声を潜めて言った。

「そもそも、川野は私とセックスしたいわけではないんでしょ? 子供が欲しいだけなんでしょ?」

 少し考えた。でも、考えようと考えまいと、その問いに対する答えが決して変わらんことは、理屈としてわかっとった。でも、でも……。


 混乱した。


 さっき、いや、たった今、泣いていた﨑里ちゃんを抱きしめたい、押し倒したいと感じた、あの衝動は何やったんやろう? 間違いなくあった。痛いほどに感じとった。――体だって反応しとった。しばらく考えて、信じたくもないほどあさましい結論に達した。父ちゃんに対する強い劣等感の裏返し。自発的に女を抱くことはできんくせに、父ちゃんというライバルが現れたときにだけ、猛烈な支配欲に駆られるっちゅうこと。俺は本当にどうしようもない出来損ないらしい。


 﨑里ちゃんの涙で濡れた小さな顔が青白く浮かび上がっとる。華奢な首、そこからなだらかにつながる薄い肩。それはときどき小さく痙攣するように震えとる。しばらく見つめとった。きれいやなっち思った。繊細で、凛々しくて、心を震わせるほど美しいっち感じた。だけど、今やそれは見事な大理石の彫刻と同じやった。どんなに見つめても、触れたいともキスしたいとも押し倒したいとも思えんかった。


 打ちのめされた。


「そうやな。やっぱり俺は同性愛者や。﨑里ちゃんに感じる“好き”はしょせんプラトニックで、矢野っちに対するものと全然違う。性的な欲望は、たぶん、抱けん。﨑里ちゃんとのセックスは――たとえできたとしても――子供を作る手段。それ以上の意味は持てん。ごめん」


 﨑里ちゃんがまっすぐにこちらを見つめている。窓から入り込むわずかな光を受けて目がきらきらと光っている。


「謝る必要なんてないよ。あのね、川野、きちんと覚えておいて。私は自分がセックスをするのは嫌い。もしも川野がどうしてもと言うなら、応じないわけではないよ。でも、そうでもないのに、私を慰めたりなだめたりしようとして、そういう手段を選ぶのはやめてもらいたい」


 きっぱりとした口調に疑問がわいた。

「何が嫌なん?」

「みっつ、ある。川野と同じで、皮膚の接触が嫌い。それに、ペニスを持つ者の支配欲に屈服させられるのがいや。それから、自分がそういうことをしていると思い描かされることがものすごく不快なの」

 思わず聞いてしまった。

「相手が竹史でも? さっき、抱きしめてって自分から言っとったやん?」


 ため息をつくのが聞こえた。


「抱きしめるのとセックスを一緒にしないで。さっきだって、もしもふたりとも裸だったら、あんなことお願いしていないよ。私が求める性的な交わりは、好きな人に着衣で抱きしめてもらうこと。抱きしめてもらうのは大好きだけれど、でも、それ以上は嫌なの――だから、安心して」


 俺のほうもため息をつきたかった。


「子供、フツーに作れそう?」

「何とか耐えられなくもないから、私は大丈夫だよ。むしろ、川野はどうなの?」

「……やってみんと、わからん」


 俺たちはしばらく黙り込んだ。


「……きちんと準備をしてから、気長に試してみよう? 焦るとこじらせるだけだと思うから」

 﨑里ちゃんはそう言うと、俺の頭をなでた。

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