第23話
その日の日中は﨑里ちゃんのばあちゃんの家の掃除を手伝いに行った。﨑里ちゃんは来なくてもいいと何度も断ったが、実際のところ、あの家を一人で掃除するのは大変だ。畑はどうしようもないのでもう手を付けず、家の中を片付け、掃除し、布団を干した。
午後一時過ぎに、掃除はひと段落つき、買ってきていたパンを昼食に食べた。﨑里ちゃんが紅茶を入れてくれた。チキンサンドを食べながら、聞いた。
「今、この家使っとる人おらんのやろ? 普段は締めっぱなしなん?」
「ううん、一週間に一度、彩おばちゃんが空気を入れ替えに来てくれてるって」
「ああ、なるほど、だからそげん傷んどらんのやな。でも、いつまでも彩おばちゃん任せってわけにもいかんのやないん? これからどうするん?」
﨑里ちゃんは少し顔をくもらせた。
「お父さんも彩おばちゃんも気にはしているみたい。お父さんは、いずれここに帰りたいって言っているけど、具体的に考えているのかどうか……。彩おばちゃんは、下の子が高校を卒業したら、夫婦でこの家に越してこようかって言ってくれているけど、まだあと五年も先だし。それに、この家も古いから、どうなるかわからないね」
「そうやな、誰かが越してくるまでのあいだ、管理しとくだけでも大変やな」
パン屋の紙袋からレーズンサンドを取り出した。懐かしい香りがする。半分に割って、﨑里ちゃんに差し出した。
「はい、半分こしよ。よく、教室で食べたよな」
﨑里ちゃんも微笑んだ。
「うん、私にとっても懐かしい味だよ。木曜日の朝の味だね。ねえ、川野、弓道はもうやってないの?」
「やっちょらん」
「やらないの?」
「……」
「あんなに美しい射だったのに」
俺は苦笑して紅茶を飲んだ。
「美しかったんは“袴の彼”やろ? 俺は足元にも及ばんって、ひどい言われようやったやん?」
﨑里ちゃんは眉をひそめた。
「何言ってるの? 川野の射はきれいだったよ。高校一年の最後に見たときには優雅そのものだったよ。“袴の彼”の射には剃刀の刃のような鋭さと近寄りがたい凄然たる美があったけれど、川野の射は軽やかで明るくって、自分も弓に触れてみたいって思わせる温かみがあった。もう、やらないの?」
「――弓ってさ、単純な構造やろ? やけん、動揺がすぐに出ちゃうんよな。高校一年のころ、俺の射が良くなっていったのは、“袴の彼”の指導と、﨑里ちゃんが俺の支えになってくれとったからや。そのどちらも失ったあと、それでも高校におる間は何とか踏ん張ったけど、卒業してからは、もう、弓に向き合う勇気なんてなかったわ」
そう言いつつ自分の言葉を反芻し、ふがいなさにため息をついた。
「私がまた川野の支えになるって言ったら?」
俺は答えられず、また紅茶を飲んだ。
「俺って、気難しい?」
﨑里ちゃんは上目遣いでちらりとこちらを見た。
「明るくってハイな川野と、暗くて近寄りがたい川野がいて、昔は、前者のすきまから、ごくまれに後者がのぞくって感じだった。いまでは、その比率が逆転しているかもね」
「そっかあ。いろいろ吹っ切ってきたつもりやったんやけどなあ。たまにしか会わん妹からも、気難しいっち言われるとは思わんかったわ」
「川野、あの頃の川野の口癖、こんな感じだったよね。できないことを嘆くよりは、楽しめるものを楽しませてもらう、って。できないことを悩み続けるの、やめようよ。誰しも、あきらめなきゃならないことをどこかに持ってるんだよ?」
俺は暗い目で見るともなしに﨑里ちゃんを見ていたのだろう。﨑里ちゃんは真正面から俺を見据えてきっぱりと言った。
「川野、ちゃんとこっち見て。あのね、川野が憧れる“ふつう”なんて幻影だから。“ふつうの人”なんて、いないんだから。そんな幻を追いかけるのに一所懸命になって、人生を台無しにしないで」
わだかまっていたものが、どろりと流れ出した。
「そんなん、﨑里ちゃんがフツーやけん、言えるんよ――」
﨑里ちゃんの声がワントーン低くなった。
「ねえ、ノンセクシュアルって川野の定義では“ふつう”なの? 卵巣をひとつ摘出していても、“ふつう”?」
﨑里ちゃんは真っすぐな視線でこちらを見つめている。でもその視線からは今までの強靭な輝きが消えていた。
ノンセクシュアル? 確か、恋愛感情はあるけれど、性的な接触を望まないってことやったっけ? それは三人の男と付き合ってきてセックスしてみたが、気持ち悪さに耐えられんかったっち言うちょったことか? 卵巣の摘出? それは知らんかった。いつそげな病気をしたんやろう?
「自分の、いわゆる普通じゃないところをさらけ出して同情を買うのは嫌だけれど、本当のことだから仕方ないよね。この世のひとたちは、みんな、どこかが人より出っ張ってて、別のどこかが人より引っ込んでるんだよ。それを全部足し合わせて人数で割って、平均されたのが“ふつう”という架空のモデルでしょ? 現実世界には“ふつうの人”たちなんていやしない。空想にコンプレックスを感じる必要なんてないんだよ」
そう言われても、俺には納得できんかった。
「ノンセクシュアルの人は周囲に対して性的に能動的にならんやろ? やけん、たとえきちんと認めてもらえんにせよ、コミュニティからの暴力的な排除には結びつかんやん? 臓器の欠損だって、同情こそされ、それをあげつらう人はおらんやろ。でも、同性愛って、自分たちがその“いびつ”な愛の対象になりうるもんやけん、一般社会は狂信的に排除しようとするんよ」
声を震わせた俺に﨑里ちゃんは静かに言った。
「川野が同性愛をことさら気にするのは、周囲がそれを理解してくれず、迫害されるのが怖いから? 確かに、同性愛者に対する無理解は存在するし、聞くに堪えない誹謗中傷もある。また同性愛というだけでこうむる社会的不利益もあるよね。悲しいことだけど。でも、社会が受け入れてくれないことばかりに目を向けるんじゃなくて、それを変えていこうとしている人たちだって少なからずいて、社会の認識は変わりつつあるってことにも目を向けて?」
それは、わかっちょる。俺なんかよりずっと強い人たちが声を上げ、それに応えてくれる人たちだっておる。俺は自分がフツーじゃないことを再認識させられるのが怖くて、そげな人たちのコミュニティに入ることもできんかった。たぶん、この先も。そ知らぬふりをして笑うことしかできん人だって、おるんよ。
「同性愛については百歩譲ったとしても、好きなやつの体にさえ触れられないほうは、これはどう考えても生物として異常としか思えんやろ?」
﨑里ちゃんはいぶかしげな顔をした。
「でも、親密でもない人と体を触り合うような場面って、ほぼないでしょ? 体を触りあえないというコンプレックスが、なにか社会生活で問題となりうるの?」
ためらった。でも、言わざるを得なかった。惨めさと恥辱に顔が赤らむのを感じた。
「そっちは社会生活じゃない。――子供、作れんやん。もしも俺が﨑里ちゃんと結婚したとしても、子供、作れんやん。たとえ同性愛者やとしても、子供さえ作れれば、俺の存在意義はあるんかな、っち思える。でも、それすらできんのやったら、俺……」
俺の言葉に﨑里ちゃんはかすかに挑戦的な笑みを浮かべた。
「子供は、触れ合えなくったって、作れるから。だからそんなことを川野が心配する必要はないよ」
思わず言い募った。
「そういうのは、嫌なん! 生まれる前からフツーじゃない状況を子供に負わせるなんて、俺、そんなん、嫌なん!」
﨑里ちゃんは、一瞬、表情をなくして俺の目の底をのぞき込んだ。でもすぐに皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「――じゃあ、三つ目だね」
「え?」
「私のふつうじゃないところ」
「え?!……あ……ごめん」
「別に謝ることじゃないけどね。私はふつうであることにこだわってないし、むしろふつうって嫌いだから」
﨑里ちゃんは淡々と言う。俺の方は、もう、ほとんど半泣きになっていたと思う。
「でも、でも、子供はフツーに作ってあげたい」
﨑里ちゃんはそよ風のようにさらさらと言った。
「川野がそこまでふつうにこだわるんなら、時間をかけて試してみない? 同性愛者と自認しているからと言って、異性とセックスできないわけではないものね。問題は……体に触れること、触れられることに慣れられるかどうかだね。でも、もしも克服できなくて、川野の言うところの“ふつうのやり方”で子供が作れなくても、最終手段は残されているんだよ。だから、試してみる前に悲観することなんて、何ひとつない」
うつむいた。恥ずかしさ、悔しさ、悲しさ、やるせなさ、割り切れなさが渦を巻き、黒々とした淵をなしていた。その淵の上にぽっかりと浮かぶ弦月。こげな自分にも存在意義があるんかもしれんちゅう、一縷の望み。もう
「川野を泣かせるの、これで二回目かな? 三回目かな?」
うつむいたままつ俺もつぶやく。
「さ、﨑里ちゃんのほうが、よく泣いとろう?」
くすりと笑う声が聞こえた。
「そうかもね、川野といるとね」
﨑里ちゃんがポットからふたつのカップに紅茶を注ぎ足す音が聞こえた。紅茶を一口飲む気配がした。かちゃり、とカップがソーサーに当たって小さな音を立てた。
「川野、私と結婚してください」
「こ、こげん俺でよければ……」
﨑里ちゃんの顔が見られんかった。顔を上げる勇気が出んかった。また、﨑里ちゃんの渾身の体当たりで、俺は一歩前に転がり出されたんやな、なんて強引な……泣きながらそう思った。
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