第21話
風呂から上がって二階に上がり、部屋のドアを叩いたが応答はなかった。そっとドアを開いて中をのぞくと、﨑里ちゃんはもう布団に入って眠っていた。規則的な寝息を立てているのを確認すると、ほっとした。
﨑里ちゃんの寝顔はしらじらとして大理石の彫刻のように滑らかだ。精巧に刻まれた耳、シャープに切り出された鼻梁、なだらかな弧を描いて閉じられた目、思いがけずふっくらとした唇。すべてが清潔でひんやりと冷たそうに見えた。その見事な造作にしばらく目を奪われとったが、我にかえり、明かりを消して自分の古いベッドにもぐりこんだ。
「川野?」
暗がりからいきなり声をかけられて驚いた。
「わっ、な、なに? 起きとったん?」
﨑里ちゃんは寝返りを打ってこちらに顔を向けた。小さな声でささやく。
「うん。あのね、私が部屋にいたら落ち着けないんじゃない?」
「ああ、それなら気にせんでいいよ」
﨑里ちゃんが口ごもりつつ言う。
「……もしかして、だけど」
「うん?」
「触るの、平気になったの?」
「はあ? なんのこと?」
「さっき駅で、私の顔に触ったよね?」
「え?!」
意識していなかった。記憶を手繰った。うすぐらい駅舎のなかに、白くて、真っ赤な頬っぺたの﨑里ちゃんがいて――触ったわ、たしかに、思わず頬を触っとったわ。座ってこちらを見上げる犬かネコに、無意識に手を出すような感覚で、頬に触れていた。
「触った、な……」
「平気になったの?」
「それは……わからん」
「じゃあ、触ってみて」
そう言うや、俺の返事を待たずに﨑里ちゃんは布団から抜け出し、ベッドの横に座った。仕方なく、俺も起き上がると、ベッドの端に座った。左手をそろそろと伸ばす。ほのかに見えている小さな顔に手が触れた。石の冷たさの代わりに、しっとりとした温かさ、そして弾力が伝わってきた。想定外のなまなましい感触に、生まれたばかりの子ネコの腹を思い浮かべ、思わず手を引いた。
「ごめん、やっぱ、無理」
心臓がどくどくと脈打っている。﨑里ちゃんは引き下がらなかった。
「じゃあ、服に覆われているところなら?」
こちらを鋭い目で見据えている気配を感じた。断れず、左手で肩を、二の腕を触る。長袖のTシャツを通じて、ほんのりと体温が伝わってくる。むずむずして落ち着かない。
「胸は?」
きっぱりとした口調で問われ、やむを得ず、左手をそっと胸に沿わせた。奇妙な柔らかさ。すぐに手を引いた。息苦しくなり、冷や汗が出てきそうだった。
「――ごめん」
情けなくなってそう言うと、﨑里ちゃんはさばさばと答えた。
「謝らないで。確認しているだけなんだから。じゃあ、最後だけど、触られるのは、どう?」
「それは、わからんわ。女性に触られる機会なんて、なかったけん」
「じゃあ、触らせて」
そう言うと、﨑里ちゃんは立ち上がって、手を伸ばした。左頬に冷たいものが触れる。ぞくり、とした。体をねじり、早口で言う。
「ごめん、無理」
「もう少し、待って」
小さな手がトレーナーの上から二の腕を、背中を、胸を触る。くすぐったさと、さざなみのように押し寄せてきた不快感に鳥肌がたち、無言で身を引いた。
「うん、わかった。嫌な思いさせてごめんね。もう、何もしないから、ゆっくり休んで。おやすみなさい」
そう言うと、布団に戻った。
俺はしばらくベッドの端に腰かけたまま、放心していた。なぜ駅で彼女の顔を触ったんやろう? 触れたんやろう? あの日、会いたいと強く思った﨑里ちゃんなのに、その彼女を触ることに、そして触られることに、こんなにも激しい嫌悪感を抱くなんて、どういうことなんやろう? しばらく横になる気にもなれなかった。自分がフツーやない事実を改めて突き付けてくれた﨑里ちゃんが恨めしかった。
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