章くんを私にください。私が幸せにしてみせます。

第19話

 﨑里のばあちゃんの初盆は来年になったので、今年の盆休みは――いや、今年も、が正しい――帰省せずに、製作所で技術習得に集中することにした。溶接がどうにも苦手なのだ。この道五十年の熟練溶接工の木村さんがちょうど大きな仕事をひとつ片付けたとこやと聞いたんで、ここぞとばかりにレーザー溶接と異種金属間溶接の技術をとことん叩き込んでもらった。母ちゃんからはお叱りの電話がかかってきたが、仕方ない。矢野っちと黒木ちゃんの結婚式のため、来年は正月休みに加えて、一月中旬に休みを取らなければならないので、その振り替えもかねてやったんやから。


 木村さんは七十歳間近の腕利きの職人で、会社の創業者のひとりらしい。一見無愛想なところがちょっとだけ父ちゃんに似ている。入社してしばらくは挨拶をしても返してくれず、目を合わしてすらくれんかった。でも、入社後一か月目に俺が溶接で大失敗をしてさんざん𠮟られたあと、唐突にしゃべってくれるようになった。大学出を鼻にかけたすかした奴と思っていたのに、どれだけ怒鳴りつけてもふてくされず、最後まで返事をしながら話を聞いていたのが気に入った、ということらしい。それ以降、あき、あき、と目をかけてくれるようになった。熊本出身で十代のころ大阪に出てきたんやそうな。大阪で出会った宮崎出身の奥さんとの間に娘と息子がひとりずつおるものの、娘は海外に嫁ぎ、息子は東京で就職し、ふたりとも盆や正月には戻ってこないんや、そうぼやいた。


 盆休みを返上で指導してもらったあと、ふたりでいつもの居酒屋に行った。小上がりに腰を下ろしながら「生中ふたつ」とカウンターに声をかけると、木村さんはかばんから小さな包みを取り出した。何ですかと尋ねると、奥さんが作った佃煮だと言う。

「あきにやってくれとさ。これと米がありゃあ、朝飯は食えるからな」

 恐縮しながら包みを受け取ると、木村さんは、うちのやつが章ちゃん、章ちゃんってうるさいんや、今度また遊びに来い、と照れくさそうに笑いながら言った。

 ビールを飲みつつ、木村さんはとつとつと、でも途切れなく話をする。会社設立当初の苦労話、社長との腐れ縁、ベテラン顔をしている中堅たちが新人だったころの数々の失敗話。こんな話、木村さんからでなければ絶対に聞けない。少し酔いが回ってくると話題は娘さんや息子さんへの、さらに酔いが回ると、奥さんへの愛情にあふれた愚痴になる。木村さんの体から発せられていた凛とした威圧感が消え失せ、銭湯帰りに床几しょうぎに座ってひと息つく好々爺こうこうやになる。


 中ジョッキを二杯空けたところで、木村さんは熱燗に、俺は酎ハイに移った。

「そう言えばな、この前、長瀬にけったいな飲み屋につれて行かれたんや」

熱燗をちびちびやりながら、木村さんがぼそりと言った。もう顔が赤い。俺はもろきゅうをぼりぼりとかじりながら問い返した。

「けったいな飲み屋、ですか?」

「おう、あいつが最近行きつけにしとる店らしい。入ったら、なんかおかしな感じのママがおってな。可愛らしい顔をして愛想もええんやけど、えらい背えが高くて声が低いんや。なんやろって思っとったら、おかまバーやと」

 いきなり水を浴びせられたようやった。少しだけ手が震える。木村さんはそげな俺の様子には気づかず、ぽつりぽつりと話す。

「話がうまいんや。長瀬がまたいつもみたいにさ、しょうもない自慢話やら愚痴やら、グダグダ話すんやけどな、これを上手にあしらうんよ。にこにこしながら話を聞いて、手え叩いて笑ったり、ちゃちゃ入れたり、やんわりなだめたり、な。長瀬は長瀬でええ気分で話しよるし、横でふたりのやりとりを聞いとったこっちも、楽しく飲めた。大したもんやって感心した。そこらのお姉ちゃんより、よっぽどすごいわ。何やろな、おかまっちゅうのは、話がうまいもんなんか?」

 俺は何も言えず、酎ハイを飲んだ。

「そやけど、店を出ていくときに、ママがカウンターから出てきて、また来てなって手を握ったんや。長瀬と俺の、な。あれは、ちょっと、な。うちの娘よりよっぽどべっぴんさんなんや。手だってよ、俺やおまえの手と違って真っ白ですべすべしとって、指も、こう、すうっと長いんやわ。ほんで男っていうんやから、な。手を握られたときは、正直言うてぞっとした」

 もう一口酎ハイを飲むと、俺はあいまいに笑った。

「ああいう店、ほんまにあるんやな。話には聞いとったけど。章、行ったことあるか?」

「いや、ないです。その後も、また行ったんですか?」

 木村さんは熱燗をぐっと飲むと、眉をひそめて言った。

「いや。一回行ったら、社会勉強には十分やな。最近では多様性やらLGBTやら言いよるけど、おかまとか、ホモとか、俺はどうも、な。うちの娘も息子も、出来は良くないけど、まっとうに育ってくれたことだけは感謝しとるわ。章が興味あるんなら、長瀬に言うてみたらええ。喜んで連れてってくれるわ」

「――俺もそげん興味ないんで」

「そうやな。そういう人がおるんは仕方ないんかもしれん。どこの世界でも、変わりもんはおるもんや。でも、それをなんか見世物みたいに見に行くっちゅうのは、相手にとっても失礼やな。無理に歩み寄ろうとか、理解しようとするんがおこがましいんやないかな。違うもんはどうしたって違うやろ? 相手の世界を侵害せずに生きていけば、お互い幸せになれるんやないんかな」

 そうですよね、そう言うと俺は微笑んで酎ハイを飲み干した。


 結婚式の準備は、矢野っちが綿密な計画を立てていたので、それをたたき台にして確認していくだけでほぼ事足りた。﨑里ちゃんは俺より前に司会を引き受けていて三人で不定期に連絡を取り合っていたらしい。俺が引き受けてからは四人で週末に打ち合わせをするようになった。打ち合わせは、ウェブミーティングに加えメールとラインを使えばほぼ事足りたが、秋になると、週末にたびたび、矢野っちが大阪まで足を運んでくれた。


 当初、矢野っちの顔を見るたびに動揺し、それが不快で、司会を引き受けたことを内心後悔していたが、しだいにそれにも慣れ、自分の気持ちに折り合いを付けられるようになると、矢野っちの訪いを心待ちにするようになった。

 何度か、飲み過ぎて終電を逃した矢野っちをアパートに泊めたこともあった。ゲスト用の布団なんてなかったので、矢野っちを俺のベッドに寝かせ、俺は毛布にくるまって床で寝た。夜中に喉が渇いて目を覚まし、水を飲んだあと、ふと矢野っちに目をやると、子供のような無防備な様子で眠っていた。


 矢野っちが俺に告白されても動揺せず、泰然と構えていられたのは、彼がすでに社会の中でしかるべきポジションを得ていたからやないか、ふと、そげな考えが頭をよぎった。

 有名大学の大学院生で、修士二年の段階ですでに査読付き論文を数報アクセプトさせており、もちろん博士課程への進学も決まっちょる。なにより、裕福な婚約者持ち。博士課程に進学するものにとって、いざというときに頼れる経済基盤があることは、精神的安定性に直結する。その点、矢野っちは盤石な基礎を築き上げ、その上を黒木ちゃんと手を携えて颯爽と歩もうとしていた。

 俺と同じ世界に降りてきて、同じ目線で物を見て、俺を受け止めてくれたわけやない。自分が俺を受け入れる立場になることはない、そう確信できていたからこその悠然たる態度やったんやろう。晩秋の未明の部屋のうすら寒さにぶるりと身を震わせた。


 窓から入り込む薄明りに照らし出された童子のような顔を見つめとると、俺と矢野っちのレールは、もう決して交わることがないという確信めいた思いが頭に浮かび、それは熟したスモモが地に落ちるように、ぽとりと腑に落ちた。頭がしびれるような寂しさを感じとったんは確かやけど、その一方で、矢野っちと隣合ったレールを走れたら楽しいやろなと思えるようになっていることにも気づいた。


 身のほどを知ったのだ。


 高校一年のころは、悩んどっても、心のどこかに頼りなげな明かりがまだ灯っとった。その明かりは時に揺らぎ、消えそうにもなったが、暗がりで輝く小さなかけらを探しだすには十分だった。星屑のようなかけらを拾い集めては、てのひらに載せたり透かしたりして楽しんだ。

 自分の周りに石をひとつずつ積み上げて作った砦をすっかり打ち崩され、真っ裸で泥の上に転がされて、ようやく、自分がこの世のどこにいるのかを知った。明かりは完全に消えてしまった。手足がしびれ、全身が凍えていくのを感じながら、暗く冷たい泥の中にただ座っていた。

 あるとき、その泥の中に何かが見えた。赤や青や紫に輝く小さな小さなかけら。幸せなひとたちの手に収まり切れず、こぼれ落ちた幸福のかけら。泥の中でそれらはかすかな光を放っている。暗闇に馴れた目にしかとらえられない仄かな光。俺はそれをそっと摘まみ上げた。泥まみれの指の先でぼんやりと発光するそのかけらを眺めていると、満たされぬ気持ちが慰撫されるのを感じた。あの頃のように。


 﨑里ちゃんやないか? 矢野っちに司会の件を申し出たのは。そして俺を推薦したのは。さらには、矢野っちに俺を直接訪ねるように言ったのは。


 だって、そもそも矢野っちにも黒木ちゃんにも、俺は大阪の住所を伝えとりはせんかった。うちの両親は息子の友達であろうと、勝手に住所や電話番号を教えることはなかった。﨑里ちゃんしか、おらん。俺は、いつになっても、彼女に背後から前へと全力で押し出されているんやな。いや、むしろ、助走をつけた渾身の体当たりで前方に突き飛ばされてるというほうが近いかもしれない。川野くんは臆病でひとりじゃ歩き始めることすらできんけれど、方向音痴でパワーだけが有り余っとる﨑里さんとなら、人一倍のことができるよ、いつかの矢野っちの言葉が思い出された。


 そのとき初めて、﨑里ちゃんに会いたいと心から思った。ひりひりと焦がれるような気持ちになった。挑発的でそのくせ脆い、あのまなざしを身近に感じたかった。これって、恋なん? やとしたら、俺は、俺は同性愛者のくせに﨑里ちゃんを恋しく思っちょる、その矛盾を初めて実感した。


 年始に現地で最終打ち合わせをしようということで、矢野っちと黒木ちゃんの結婚式の準備はほぼ終わった。

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