第18話
もう三杯目のジョッキもほとんど空だ。でも、口調も顔色もちっとも変わらない。
「川野くんに八年間も思い続けた人がおるなんて、僕は知らんやったけど、その人は果報者やね。でも、川野くんがさっき言ったように、その人への思いに成就する見込みがなくって、むしろ今の川野くんの
我に返った。
「そげん簡単に言わんで! そげんこと、できるくらいやったら、とっくにやっちょる! 矢野っちには、わからんわ」
思わず語気を強めてそう言うと、矢野っちは一瞬目を見開き、すぐに真っ赤になって視線を落とした。
「ご、ごめんね。思慮の足らん言葉やった」
その悄然とした表情を見た瞬間、猛烈な後悔の念が押し寄せてきた。そして悟った。駄目や、俺が矢野っちにかなうわけない。矢野っちを否定したり悲しませたりすることなんて、俺にできるわけない。たとえ自分自身が打ちのめされることになったって。踏ん切りの付けどきか、まさにそうかもしれん。今日、製作所の前で矢野っちの姿を認めてしまった段階で、行きつく先は決まってしまっとったんや。もう、覚悟を決めんといけんのやろう。
深く息を吸い、吐き出した。
「矢野っち、こっちこそ、ごめん、大声出したりして。――あの、終電、大丈夫? まだ大丈夫なら、俺、もう一杯飲みたいんやけど、いい?」
「終電はまだ大丈夫だよ。僕も付き合う」
矢野っちは穏やかにそう言い、俺は、ふと、気になった。
「あのさ、矢野っち、アルコールについて自分の限界をわきまえちょるっち言っとったけど、限界って、どこな?」
矢野っちはまた何とも人懐っこい表情ではにかんだ。
「ビールやったら中ジョッキ十杯飲んでも、問題ないよ。ただ、トイレは近くなるけど」
「……ここにもバケモンがおったか」
「うん?」
「いや、何でもない。肝臓には気を付けてな」
「川野くんは、大丈夫だよね?」
「ビールで泥酔することはないけど、腹にたまるけん、飲んでも四、五杯が限度かな」
俺たちは新たなジョッキを手に、もう一度乾杯した。矢野っちがここまで俺のことを観察していたことに、正直、ひやりとさせられたが、ここまで俺のことを気遣ってくれとったことに感動してもいた。それをまるで無視して適当にあしらうなんて、俺にはできんかった。﨑里ちゃんにかき乱された心がようやく落ち着き始めていた矢先に、また、撹拌機のつまみをマックスにしてかき回され、混乱の極みにあったのも確かや。八年間、拘泥され続けた苦しみから、もう解放されたいとも思っとった。その直後からさらに辛い苦しみが始まるのは自明のことやったけれど、かなたに矢野っちの視線を感じつつ、苦しみから別の苦しみへの鞍点でかりそめに息をつく誘惑に、俺はもう抗えなかった。
腹をくくり、体がすうっと冷えていくのを感じながら、声を潜めて告白した。
「矢野っち、俺、同性愛者なん」
指先が冷たい。自分で言っておきながら、改めて、その響きにまつわる忌まわしさに逃げ出したい気分になった。矢野っちはわずかに眉を上げた。何も言わない。俺は目をそらして続けた。
「やけん、俺の思いが実ることなんて、ないん」
不思議そうに尋ねる矢野っちの声が聞こえた。
「何で? 何でそうなるん?」
俺は思わず矢野っちまじまじと見つめた。
「え、何で、って……。だって、ふつう、そうやろ? 気色悪い、自分に関わらんでほしい、俺をそげな目で見るなよっち、みんなそう思うやろ?」
矢野っちは特に動揺した様子もなく、ビールを飲んでいる。
「そうかな? 僕は、そげんふうには思わんけど。みんなが気味悪いと思う、っていうのは、言い過ぎやない? 川野くんの思い人だって、受け入れてくれないと決めつけるんは、どうかな」
心の中で何かがぱちりとはじけた。苦いものが体いっぱいに広がっていく。どうせ他人事やとしか思ってないんやろ。声を押し殺してうめいた。
「矢野っち、それはわかっとらんと思うわ。俺が、俺が八年間思い続けた人は、京都に住んどって、今大阪に来て、俺の目の前でビール飲んでます、そう聞いても、まだそげんのんびりしたこと言える?!」
言ってしまった。
瞬間、抜け出した牢獄の外の爽やかな風とまばゆい光を感じたが、それはすぐに、その周囲に広がる見渡す限りの砂漠に対する絶望感へと変わっていった。でも、矢野っちの反応は俺の想像をはるかに超えていた。目を見開いて、僕? と聞き返すと、上気した顔をほころばせ、ありがとうと言ったのだ。何で……とたじろぐ俺に、矢野っちは変わらぬ笑みを浮かべたまま、こう言った。
「だって、自分のことを好きって言ってもらえるのは、嬉しいことやない? 僕は川野くんのことが好きやけん、川野くんから好きやって言ってもらえるのは、嬉しい気持ち以外ないよ」
混乱した。川野くんのことが好き? 川野くんのことが好き?
「矢野っち、わかっちょる? 友達としてやなくて、恋愛対象として好きって意味なんよ?」
「わかっとるよ。ただ、僕は結衣ちゃんのことも好きで、結婚することが決まっとって、だから川野くんの思いに応えることはできん。ごめんね。やけど、川野くんの思いは嬉しい。それを否定する気はないし、そげな必要もないんやない?」
毒気を抜かれた気分やった。混乱したまま動悸だけがゆっくりとおさまり、いっぽうで頭の中は真っ白になり、ビールを飲むことしかできんやった。矢野っちは少し寂し気な顔になって言った。
「でも、そうか、そうすると、女性とは、﨑里さんとは、駄目ってこと?」
俺はもう一口ビールを飲んでから、言った。
「よくわからんの。俺は女性に恋愛感情は一切持てなくて、ただただ矢野っちのことが好きやったんやけど、実は、﨑里ちゃんだけには、友情以上のなにかを感じていそうなん。それがどういう気持ちなのかは、自分でも正直言ってよくわからんのやけど」
矢野っちは嬉しそうな顔になって、
「それなら、まだ、可能性はあるね?」
そして背筋を正して言った。
「ねえ、川野くん、まずは、もう一度お願いさせてください。一月の僕らの結婚式の司会、やってもらえませんか?」
ここでその話を蒸し返すか。策士やなあ、完敗や。さすが俺が八年間惚れ抜いた相手やな。
「わかったわ、矢野っち、俺でよければ、引き受けさしてもらいます」
矢野っちはとびっきりの笑顔を向けてくれた。
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