第17話
しばらく黙っていた矢野っちがぽつりと言った。
「まだ、終電まで時間あるんよ。僕、もう少し飲もうと思うんやけど、川野くんも、付き合ってくれる?」
無言でうなずいた。ビールが来ると、矢野っちは一口飲む。本当においしそうに飲むその顔は、恨めしくなるほど愛おしかった。
「矢野っち、強そうやな。――いつから飲んどるん?」
にっこりと笑って言う。
「二年生のころからかな」
「二年生って、小学校のはずはないよな? 中学でもないよな? 高校? 大学?」
矢野っちはさりげなく視線をそらし、
「そこは想像に任せるよ」
そう答えた口が笑っている。
驚いた。まじめで奥手で、すぐに赤くなってクラスメイトともまともにしゃべれんかった矢野っちが……。
言葉を失っている俺を矢野っちはしばらく黙って見ていたが、おっとりとした笑みを浮かべると、あたかも俺の考えを読んだかのようにこう言った。ゆっくりと、言い含めるように。
「川野くん、僕、川野くんが思い描いとるような、まじめな人間やないよ。吃音を気にしてしゃべれんかったのは本当やし、人付き合いが苦手なのは実際今でもそうやけど、すぐ赤くなるのは意識してやっとるわけやないし、言わせてもらうなら、別に奥手なわけでもない。やりたいと思うことは、むしろためらわずにやっとるよ、たぶん、川野くんよりずっとね。川野くん、周りをよく見とるようで、見えとらんところがあるん。近いところほど、見えとらんのかな? 一番見えとらんのが、自分のことやね」
俺はぼんやりと顔を上げた。
「自分のことが見えとらん?」
矢野っちは俺を優しい目で見ながら語りかける。俺はあのとき渡り廊下に迷い込んでいたネコになったような気分がした。
「うん。川野くんさあ、人と議論するときには、必ず相手にある程度の退路、逃げ道を残しといてあげんといけんのよ? 相手が自分の心やとしても、同じやと思うん。川野くん、昔っから、心の退路を全て絶って、自分をやみくもに抑え込もうとしとったよね。ときおり、それが破綻してしばらく立ち直れんかったよね。それを見ては、ひやひやしとったん。自分を制御するのが下手やなっち」
そこまで言うと、少しだけ真顔になった。
「自分のこと、嫌いなん? 今の川野くんは、あの頃よりさらに自分との付き合い方が下手になっとるように思うよ。本当の自分ときちんと向き合って、それを認めてあげたうえで、時にはしっかり甘やかさんと。目をそらしたり、抑え込むばかりじゃあ、自分をコントロールなんてできんよ?」
胸をぐうっと押された気分になった。
「自分を認めることなんち、できんとしたら?」
矢野っちの眉間からすっと力が抜けた。
「それなら、まずは自分を認めてくれる誰かを探すのがいいと思う」
「そげな奇特なひと、おらんわ」
「﨑里さんでもいいし、僕でもいいやん? ねえ、川野くん、僕は川野くんのことを親友やと思っとった。高校一年のあの試験勉強の時以来、卒業するまで、何度も一緒に勉強したやろ? あげん仲良くした友達なんて、川野くんが初めてだよ。大学に進学しても、そげな友達はできんやった。だから、高校卒業後、今までまったく連絡が取れなかったのは、本当に悲しかった。ちょっと冷たすぎん?」
そう言って恥ずかしそうに笑った。
「川野くんが思っている以上に、僕は川野くんのことを見ていたつもりだよ。もう少し、頼ってくれてもいいんやないかな?」
涼やかな目でこちらを見つめる。
拷問のようやった。もう、やめてもらいたかった。でも、同時に、全身がしびれるような甘やかな感覚を味わっていたのも確かで、狩りバチに麻酔を打たれ、生きたままかじられていくイモムシを思い浮かべた。
「新たに行動を起こせば、新たな楽しいことと辛いことが双方押し寄せてくる。どちらがより大きいかは運次第やけどね。もしも行動しなければ、辛いことはやってこないけれど、楽しいこととも無縁になり、いつの間にか過去の思い出が辛いことに変容して、いつまでもじわじわと苛んでくるんよ。いずれそれにも慣れ、耐えられるようになるかもしれんけど、そのころには心は干からびていて、新たな喜びをほとんど感じられんようになっている。川野くんにはそうならないでほしい」
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