第16話

「﨑里さん、独特やったもんな。思考パタンもユニークなら、あの、美貌をまったく意識しとらん、むしろ損ねるほどの大胆な振る舞いも、見ていて胸がすくようやった。ちょっと危うげで不安になるところも、あったけど」

「矢野っちも、そう思っとったん?」

「うん。これだと決めたら、この先は断崖ってわかっても、一切ためらわず突進していくようなところがあったよね。そげな生き方、僕は考えたこともなかったけん、しょっちゅう驚かされて、心配になってもいた」

 そう言うと、ビールを飲んだ。


「でも、川野くんがいてくれれば大丈夫やと思っとったん」

 矢野っちはそう言って俺をじっと見た。

「ええ? 俺? どういうこと?」

 矢野っちは口元をわずかに緩めた。

「川野くんは方向を見極めるセンスは人一倍なのに、臆病すぎて、ひとりじゃ一歩も踏み出せん」

 矢野っちにしてはめずらしい断定調に、思わず目を見張った。それに気づいた矢野っちは頬を赤くしたけれど、言葉を続けた。

「﨑里さんは驚異的な推進力で突進しようとするけれど、そもそも方向音痴。他の人のアドバイスなんて聞く耳持たずやったけれど、唯一聞き入れていたのが、川野くんの言葉やった。やけん、もしも川野くんが﨑里さんという悍馬の騎手になって手綱をとるなら、他の誰にもまねできない、面白いことをやってのけるんやろうなって期待しとったん」

 﨑里ちゃんのことはともかく、矢野っちが俺のことを観察し、人一倍ビビりなところに気づいていたなんて、思いもよらなかった。


 矢野っちは二杯目のジョッキを空にして、言った。


「ねえ、川野くん、﨑里さんと、よりを戻さないの? 今、誰か気になっている人はおるん? あの、ごめんね、こんなこと他人が口を出すべきことやないんかもしれん。でも、僕が見てきた中では、君たちふたりほど、互いを補いあえる可能性を秘めたペアはおらん。あの駿馬を乗りこなせるのなんて、川野くんくらいのものだよ。もしも今、川野くんに意中の相手がおらんのやったら、少し考えてみてもらえないかな」


 すうっと酔いがさめていくのがわかった。八年間、ただただ思い続けた相手に、なんしそげなことを勧められんといけんの? 居酒屋で差し向かいでビールを飲んでいても、矢野っちと俺はいる次元が違う、いまさらのようにそれを実感させられた。酔いがさめ、奈落の底へと落ちていく自分を感じた。暗い闇の底で俺を待ち構えていたのは仄白ほのじろく燃える鬼火だった。静かに言った。


「それ、黒木ちゃんか、﨑里ちゃんに言われたん? 俺を説得してって?」

 矢野っちは不思議そうな顔をして俺を見た。


「ううん、ふたりからは何も。もちろん、結衣ちゃんは﨑里さんのことを気にかけとる。でも、川野くんと﨑里さんはもう終わったことだと見なしていて、あえてもう一度とは思っとらんみたい。﨑里さんからは、高校一年のとき以降、川野くんの話を聞いたことはない」


 その返答に、俺を突き動かしていた青白い怒りは行き場を失った。くるりと身をひるがえすと、俺自身に襲いかかり、羽交い絞めにした。


「思っとる人は、おる」


 自分の口から弱々しく洩れた言葉が耳に入った瞬間、わずかに残った理性が押しとどめようとすがりついてきたが、怒りはそれをものともせず、俺を苛み、口を開かせ、破局を望んでいた。


「思っとる人は、おる。もう八年間も、ひたすら思い続けた人が、おる。でも、思ってもどうしようもないん。その人が俺の思いに気づくことはないし、振り向いてくれることは、ありえんけん。俺は、この先、ずっとただその人を思い続けるだけなん。﨑里ちゃんのことは、大事な親友やと思っとる。誰より幸せになってもらいたいと思っとる。でも、彼女を幸せにできるんは、俺やない」


 そう言ってしまうと、顔を背けて、カウンター席をぼんやりと眺めた。モスグリーンの作業着のおっちゃんがひとり、背中を丸めて小鉢をつついている。煮込みと酢の物で酎ハイを飲んでいる。矢野っちから目をそらしていると、ゆっくり息をつくことができた。それなのに、またすぐ矢野っちに目を向けずにはいられない。再び打ちのめされるためだけに。俺はなんて愚かなんやろう。

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