第13話

 そのとき、スマホが鳴った。﨑里ちゃんがはじかれたように飛びつき、画面を見て、通話に応じた。

「はい。……わかりました、すぐ行きます」

 病院だ。﨑里ちゃんが通話を切ると、尋ねた。

「彩さんやろ? 何て?」

「おばあちゃんの容体が急変したって……」

「わかった。準備して。俺、運転するけん」

「うん」

 﨑里ちゃんが着替えている間、片付けと戸締りをして、少し考えてから母ちゃんに病院に行くとメッセージを入れておいた。


 消灯後の薄暗い病院の廊下をねばりつくような足音をたてながら病室に急ぐ。部屋に入ると、彩さんが泣きそうな顔でばあちゃんの手を握っていた。

「おばちゃん……」

 﨑里ちゃんが声をかけ、彩さんのそばに立つ。

「もう血圧がどんどん低くなっとって、呼吸も、途切れ始めたん」

 彩さんが言った。﨑里ちゃんは目を怒らせて、横たわる小さなばあちゃんを見つめている。俺は入口近くに立ち、その様子を見守っていた。二十分ほどたったとき、小さなノックに続き扉が遠慮がちに開かれた。母ちゃんと父ちゃんが立っていた。そっと入ってきた母ちゃんが小声で尋ねる。

「章、連絡ありがとう。どうなん?」

 容体を伝えると、ふたりとも顔を曇らせ、ベッドの中の小さなふくらみとその横で動かない彩さんと﨑里ちゃんを無言で見つめた。


 ばあちゃんは夜中の二時時過ぎに息を引き取った。


 通夜と葬儀のあいだ、﨑里ちゃんは一度も泣かなかった。涙ぐみすらしなかった。ずっと泣いていたのは俺のほうだった。﨑里ちゃんはそげな俺を見て、川野が泣くから私が泣けないじゃない、と寂しそうに笑っていた。


 結局、会社に休暇を二日延長してもらい、木曜日の朝、大阪に戻ることにした。朝、俺の出発より先に仕事に向かう父ちゃんに別れを告げていると、﨑里ちゃんが来た。

「こげん朝早くどうしたん?」

「お世話になりっぱなしだったから、最後、駅までお見送りさせてもらおうと思って」

 俺と母ちゃんを駅まで連れて行ってくれると言う。でも母ちゃんは笑いながら断った。

「二人で行ってきや。私はここでいいわ。章、あんた、次はもっと早よう帰ってきよ。きちんとした社会人なら、盆と正月は帰ってくるもんや。わかったか?」

「……善処します」

 父ちゃんが玄関で﨑里ちゃんの顔をのぞき込みながら声をかけた。

「裕佳子ちゃん、辛いやろうけど、元気出して。何か困ったことがあったら、俺や真弓に連絡してな。――祐介にも、そう伝えといて」

 﨑里ちゃんは泣き笑いのような顔でじっと竹史の顔を見つめ、はいと答えた。胸がちりりと痛んだ。


 駅で車を降りたとたん、向かいに迫る白山からセミの大合唱に包まれた。ニイニイゼミの声に、まだエンジンのかかりきらないクマゼミやミンミンゼミの声も混じっている。盛夏はもうそこまでやってきている。駅舎の入口に立つと、まだ八時前だというのに、すでに焼けた線路で熱された空気が風に乗って吹き出してきた。


「﨑里ちゃん、ありがとな。元気でな」


 ホームに並んで立つ﨑里ちゃんにそう話しかけるが、返事はない。横目でうかがうと、眉根を寄せて怒ったような顔をしている。それを見て、ほっとした。あの存在感の希薄な不安げな様子は消えている。この怒りの表情は、高校生のころから変わりない、あの﨑里ちゃんだ。どこに突き進んでしまうか分からない危うさはあるものの、ヤマネコのような生気をみなぎらせた、あの﨑里ちゃんだ。少しだけ胸をなでおろし、笑いながら声をかける。

「大丈夫そうやな。でもさ、竹史には笑って挨拶するねえ、俺にはその態度? ずいぶんやねえ?」

「一月の矢野くんと黒木ちゃんの結婚式、出るよね?」


 笑っていた頬が凍りついた。まるで錆びたナイフを力任せに胸に押し込まれたようやった。ああ、あの日届いていたはがき、あれはそういうことやったんやな。


「出らんよ」

 情けないことに、声が震えた。

「黒木ちゃんから、川野には絶対来てもらいたいって。説得してって言われてる」

「……矢野っちに、笑顔でおめでとうって言える自信がない」

「やってみなきゃ、わからないじゃない。笑顔になれなかったら、泣きながらでも別にいいじゃん? 何がだめなの?」

 線路からホームに吹きあがってくる熱い空気に、汗が噴き出してくる。

「相変わらず、無茶苦茶言うなあ。でも、年明けは仕事の納期が多いん。無理やわ。やけん、これでこの話は終わり」

 俺はそう言って口をつぐんだ。﨑里ちゃんもそれ以上言わず、俺の足元をにらみつけていた。何かが胸の中でうずいていたがもう口を開かず、到着したにちりんに乗ると、窓から手を振った。﨑里ちゃんはこちらをにらんだまま、手を振り返しはしなかった。

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