矢野っち、俺、同性愛者なん。

第14話

 二日余計に休んだ作業の遅れを挽回し、勘どころを取り戻すのに思いのほかてこずり、土曜日も出勤して作業に没頭した。ひたすら切削し研磨していると、この数日間、思いっきり動揺させられ、けぶるように濁ってしまった心の水柱を、明るい粒子や暗い粒子、きらきら光る粒子や透明な粒子がゆっくりと沈降しはじめ、水は澄み渡りはじめたような気がした。もう揺籃ようらんさせられたくなかった。もうこのまま誰とも会わず、ひたすら金属と向き合っとられたらいいのに。焼けた金属臭のたちこめる作業場で、そう思った。


 夕方、作業を終え、心地よい疲労感に満たされながら製作所を後にすると、熱気で揺らめく道をこちらに向かってくる人影が目に留まった。矢野っちやった。


 身の毛がよだち、頭の中がかっと熱くなった。何で、と考えるより先に体が動き、踵を返した。背後から慌てたような声が聞こえた。

「川野くんやろ?! 僕だよ、矢野だよ、高校の時に同じクラスやった――」

 わかっとるわ、そげんこと! 俺は足を止め、のろのろと振り返った。矢野っちが駆け寄ってくる。

「ああ、よかった! やっと会えた!」

 鼻の頭に汗の粒が浮いている。なんて懐かしい顔。一度目を向けると、もう、目をそらすことはできなかった。

「――矢野っち、久しぶりやな。どうしたん、なんし、こんなとこにおるん?」

 矢野っちはさらに近寄ってきて――そうだ、矢野っちは極端なはにかみ屋のくせに、昔から意外なほどパーソナルスペースが狭かった――あの、人懐っこい笑顔を浮かべた。

「川野くん、お久しぶり。今日も仕事やったんやね。すれ違いにならんで、助かった。ちょっと相談したいことがあって来たんよ。疲れているところ、本当に申し訳ないんやけど、少し、時間をもらえんかな?」

「……いいよ」

 チチッ、チチッとよく響く声をたてながら、ハクセキレイがかげろうを波状に切り裂きながら飛んで行った。


 作業着を脱ぎたかったので、矢野っちを連れてまず製作所近くの自分のアパートに戻り、シャワーを浴びて着替えた。思いもよらぬ矢野っちの訪問に、ほとんどパニック状態に陥っていたものの、同時に冷めた自分がいて、逃げ出しそうになる俺の足を引き留め、矢野っちに社交辞令を並べたりさえした。

「矢野っち、そういや、結婚するんやってな? おめでとさん! 今は、まだ京都におるん?」

 古い木造アパートの1ⅮKの部屋に、ちんまりとかしこまって座る矢野っちは、丸い顔にえくぼを浮かべて答えた。

「ありがとう、川野くん。うん、今はまだ大学院におるん」

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