第10話

 﨑里のばあちゃんの家も、変わっとらんかった。ただ、数日間手入れされていない畑には、すでに雑草が蔓延りはじめていた。俺は草むしりをすることにし、﨑里ちゃんには部屋の掃除をしてもらうことにした。


 午後四時とはいえ、七月の九州の日はまだずいぶんと高い。遮るもののない空を悠々と渡る太陽は肌を刺す強烈な熱波を送ってくる。畝間にしゃがむと土からも温気が立ち上り、あっという間に汗となって額や腕や胸を滴り落ちる。黙々と作業をする俺の数歩前でハクセキレイが地面をつついていた。つんのめるように小走りすると、ふっと止まっては長い尾羽をちろちろと上下させる。再びか細い足をこれでもかと回転させる。くっきりとした黒白のコントラストが目に鮮やかだ。畑のトマト、キュウリ、ナスには熟れすぎて形が崩れたりひび割れたりしたものもあった。でも、まだ食べられるかもしれない。いくつかもいだ。小一時間作業して、汗だくになって家に上がった。

「お風呂、掃除しといたから、シャワー浴びてきて」

「いいん? 助かるわ!」

 シャワーを浴びて着替えると、開け放たれた窓を通じて居間から台所へと吹き抜ける夕方の風が、ほてった肌に心地よかった。

「お、いい風やなあ。大阪より、こっちが断然涼しいよな」

 﨑里ちゃんが氷のたっぷり入ったコップをふたつと麦茶のポットを運んできた。注いでくれたコップをありがとうと言いながら受け取り、ひと息で飲み干す。﨑里ちゃんが麦茶を注ぎ足しながらたずねる。

「大阪って、そんなに暑いの?」

「むうっとした暑さや。夜になっても熱気がこもっとる感じ。朝になっても、ひんやりともせん。まあ、特にうちのアパートの近辺がひどいんかもしれんけどな。川崎って、どうなんよ?」

「川崎も暑いよ。六月から十月くらいまでは、絶対エアコンがいるもん。こっちに来て、真夏に扇風機だけで過ごせる日もあるって知って、びっくりした」

 少しだけ、昔の、高校生の頃の﨑里ちゃんの口調に戻って、俺は懐かしさで胸がいっぱいになった。なぜこげん感傷的になってしまうのか、自分でもわからずにいた。

「あのさ」「あのね」

 俺たちは同時にしゃべり始め、顔を見合わせて苦笑した。

「﨑里ちゃん、どうぞ」

「うん、あのね、本当に川野に甘えていいなら、今晩、泊っていってもらえない? そしてガールズトークしようよ、あの時みたいに。この家にいまひとりでいるのは、怖くておかしくなりそうなの。六年ぶりに帰省したその日に、私が川野を独占するのは真弓さんにも竹史さんにも申し訳ないんだけど……」

「俺も、同じこと言おうとしとったん。俺は大丈夫。母ちゃんも、もう了承済みやしな」

 そう答えると、﨑里ちゃんは大きな荷物を下ろしたかのようにため息をつき、ようやくほのかな笑みを見せた。

「じゃあ、まず、晩飯の準備しよう。食べたいもん、ある?」

 﨑里ちゃんはちょっと考えてから、はにかんで言った。

「ホゴの煮つけと、小葱の卵焼き」

「おっしゃ、じゃあ、買い出しに行こう!」


 﨑里ちゃんのレンタカーで近くに買い出しに行き、早速調理を始める。魚を触るのも久しぶりだ。鱗を落とし、はらわたを出してから、ふつふつと泡立つ煮汁のなかにそっと並べ、落し蓋をする。隣で﨑里ちゃんが小葱を洗い、刻み始める。小気味よい音が台所に広がる。

「﨑里ちゃん、むこうで料理しとるん? ずいぶん慣れたな」

「うん。お父さんは料理できないからね。私がやってるよ」

「そうなん。えらいな。大学の研究室、忙しくないん? どういうこと、やっちょるん?」

 ネギを刻む手を止めずに答える。

「古環境分析の研究。横浜に古い露頭、えっと、昔の地層がむき出しになっているところがあるんだけど、そこから岩石試料を取ってきて、その中の化学成分の濃度変化や微化石の種類と密度から、かつての環境を復元するの」

「へえ、そうするとどうなるん?」

「古環境がどのように、あるいは何がきっかけで変化したのか推測できると、将来の環境変化を予測する手がかりになるかな」

「なるほどね」

「複数人で分析装置をシェアしているから、その混み具合によっては徹夜になることもあるけれど、普段はだいたい夕方には家に帰ってる。だから簡単な料理くらいはできているよ。川野は? 川野は今何をしているの?」

 畑から取ってきたきゅうりを洗って叩きながら答える。

「工場のおっちゃんや。いろんな装置に組み込む金属部品の加工を請け負っとる製作所な。たいていは大手の下請けなんやけど、ときどき、大学の学生や研究機関の研究員が装置の特殊パーツについて加工の依頼や相談をしに来るわ」

「大学とも関係している工房なんだね」

「そうな。こないだ、超微量のガスを分析するために、装置のガス流路を鏡面加工したいっちゅう相談を受けたん。ガスの吸着を極力低下させるために、超滑らかな表面加工が必要なんやってさ。宇宙から回収した微粒子の中のごくごくわずかなガスを分析するらしいで。なんか、壮大な話よな。あの加工はなかなか挑戦的で楽しかったわ」

 﨑里ちゃんが手を止め、まじまじとこちらを見て言った。

「そうだね、ものをうみだす楽しさはわかるよ。でも、すごく忙しいの? 料理もできないくらい? 料理だって好きだったんじゃないの?」

「好きやっち思っちょったんやけどなあ。最近はぜんぜんしとらんわ。作って一人で食べよったら、なんかもう、どうでもよくなって、作るんも食べるんも、すっかり興味なくなった」

 ため息をついた。

「だからそんなに痩せたんだ」

「そげん痩せた?」

「うん。駅で見たとき、竹史さんかと思って、どきっとした」

「小嗣竹史くんのほうじゃなくて、川野竹史さんのほう?」

 﨑里ちゃんは呆れたように笑いながら、刻んだ小葱をといた卵液の中に加えて混ぜる。

「そりゃあそうだよ。高校卒業して、もう、六年になるんだよ。竹史くんって年じゃないでしょ? それに……“袴の彼”はもっとずっと清純な顔をしていた」

 俺は苦笑いしながら、畑から取ってきたナスを洗う。

「……﨑里ちゃん、だいぶ調子戻ってきたみたいやな。大学でも、その毒舌、ふりまいとるんやないやろな。友達失うで」

 﨑里ちゃんはいたずらっぽい顔で微笑むと、恥ずかしそうに言った。

「焼くのは、お願い。川野の焼いてくれた卵焼きが食べたい」

「オッケー。でも、久しぶりやけん、失敗しても、文句なしな? あ、じゃあさ、﨑里ちゃん、このナス焼いてくれる? さっき畑から救出してきたやつやけど、焼きナスにしよ」

「わかった。焼き方、教えてくれる?」

「今、洗ったけん、全体につまようじで穴を開けて、表面に油を塗ったら、オーブンで二十分くらい焼いてみて?」

「わかった」

 﨑里ちゃんがナスをオーブンに入れ、タイマーをセットしている。俺は畑のトマトをくし切りにし、きゅうりを浅漬けにして冷蔵庫にしまった。そして懐かしい――ひとさまの台所で懐かしいもないもんやけど――卵焼き器を取り出して火にかけた。


 ホゴの煮つけと卵焼き、焼きナス、畑のトマト、叩ききゅうりの梅和え、母ちゃんが持たせてくれた山菜おこわ、高菜と豚肉の炒め物、ウリの漬物を居間の座卓に並べた。

「にぎやかだね」

 﨑里ちゃんが目を細める。

「川野、何か飲む? おばあちゃんがビール冷やしてるし、焼酎もあるけど」

「今日は止めとくわ。﨑里ちゃんは?」

「私も止めておく。いつ、運転しなきゃいけなくなるか分からないから」

 そう言うと、自分の言葉に不安をあおられたかのように目を泳がせた。俺は取りなすように言った。

「先のことを考えるのは大事やけど、不幸を予期して心配したり悩んだりするのは不毛や」

 﨑里ちゃんが、ふっと息をついた。

「そうだね、目の前の、そのとき手に入る楽しみをしっかり享受していかないといけないんだよね?」

 胸が痛んだ。その言葉は高校一年の頃の俺が無邪気に繰り返していた言葉だった。まだ、なけなしの砦で自分を守れていたころに。今の俺はうなずきながら力なく笑うしかなかった。

「そうな。とりあえず、食べよう。煮つけも、卵焼きも、久しぶりにしちゃあ、うまくできとるけん」

 でも、﨑里ちゃんは、おこわと高菜の炒め物をつつきはしたものの、煮つけと卵焼きには手を付けようとしない。

「﨑里ちゃん? 煮つけと卵焼き、食べんの? 卵焼き、あったかいうちがおいしいで?」

「うん、食べる――」

 﨑里ちゃんは卵焼きを一切れ取り、取り皿の上で半分に割って口に運ぶ。俺がほっと胸をなでおろしたそのとき、﨑里ちゃんは箸を置いてうつむいた。すぐに押し殺した嗚咽が漏れてきた。﨑里ちゃんが泣くのはこれまで何度も見てきた。でも、たいていは悔し涙だった。こげん心細そうに泣くのを見るのは初めてで、胸をつかれた。俺も箸を置いた。声をかけず、ただ、泣くのに任せていた。


 数分後、嗚咽が徐々に間遠になり、ごめん、という小さな声が聞こえた。

「泣けるんなら、泣くんがいいよ。――泣くのってさ、ほら、心のマスターベーションみたいなもんって言うやん? ちょっと気持ちよくなって、そのあとしばらくは落ち着ける」

「そうなの? 川野にとっては?」

 そう切り返されるとは思っておらず、たじたじとした。

「ええ? いや、まあ、そうなんやけど、あの、なんちゅうか、一般論として?」

「卵焼き、川野に何度か作ってもらったよね。最初は初めて川野のおうちにお邪魔したとき。そのあと川野が泊まりに来て三人で朝ごはんを食べたとき、それから、あの食事会のときにも。ホゴの煮つけも、あの食事会のときの一皿だった。卵焼きを食べたら、あの頃のことが思い出されて、胸がいっぱいになっちゃった。おばあちゃんのこと、竹史くんのこと、竹史さんのこと、川野の悩みのこと……」

「ばあちゃん、良くなってもらいたいよな。もう一度、あの元気な声を聞きてえよ」

 﨑里ちゃんは涙声で、そうだね、と言った。もう少し泣いて、今までため込んだ悲しみを涙といっしょに流し出して、昔のあの好戦的でまぶしかった﨑里ちゃんに戻ってもらいたかった。

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