第9話

「川野、だよね? お久しぶり。本当に、来てくれたんだ?」

 俺は声も出なかった。﨑里ちゃんは男の子のように潔く刈り込まれたショートヘアで、作業着にも見える紺の綿パンと白いTシャツ姿だった。高校を出て六年経つにもかかわらず、色気も素っ気っもない様子はあの頃とちっとも変わらない。いや、むしろ、転校してきた当初の、髪の毛の長かったころのほうが、少なくとも、見た目は女の子っぽい雰囲気を醸し出していた。今の彼女からは、童子に戻っていってるんやないか、このまま消えていくんやないかというような存在感の希薄さが漂っていた。

「なんし、ここにおるん?」

 俺から目をそらして言う。

「真弓さんが連絡してくれたから。今日の昼ごろに帰ってくるはずだからって。だから特急の到着時刻に合わせて、何度か来てみた」

「そうか。ばあちゃん、容体はどうなん?」

「落ち着いてはいるけど、良くない」

「病院、どこ?」

「中央病院」

「歩いて行けるな」

「車で来てるから、送るよ」

「そう……ありがとう」

 﨑里ちゃんは無言で身をひるがえした。


 﨑里ちゃんの運転する白い軽の「わ」ナンバーで、駅近くの中央病院に向かった。ふたりとも何も話し出せずにいる間に病院に着き、﨑里ちゃんの後ろについて病室に入る。ばあちゃんは口に酸素マスクを着けて、ただ静かに横たわっていた。こげん小さかったっけ?

「真弓さんが倒れているのを見つけてくれたの」

 枕元に立ってばあちゃんのほつれた髪の毛をそっと整えながら言った。

「すぐに救急車を呼んで、私に連絡くれて。おばあちゃんから時々聞いていたけれど、私が進学しておばあちゃんがひとり暮らしになってから、しょっちゅう様子見に来てくれていたんだって」

 そうやったんか、やけん、母ちゃんからすぐに電話が来たんやな。

「意識は無いん?」

「まだ戻ってない。でも今のところ容体は落ち着いてる」

「そう。﨑里ちゃん、ずっとひとりで付き添っとるん? 代わってくれる人、おるん?」

「今日はもうじき彩おばちゃんが代わってくれる。あと、真弓さんもちょくちょく様子見に来てくれるし、竹史さんも、来てくれる」

 そう話しているとドアが開き、女の人がこちらを見ながらわずかに眉を上げて入ってきた。

「裕佳子ちゃん、ありがとね、交替するわ。こちらは?」

「こっちは、川野章くん。真弓さんと竹史さんの息子さんです」

「まあ! ああ、私、裕佳子の叔母の彩です。真弓さんたちには、母がすっかりお世話になりました。おかげさまで、手遅れになる前に病院に運べたんです。入院の準備も親族への連絡もみんなお世話になってしまい、本当に何てお礼を申し上げたら良いか……」

「いえ、あの、早く意識が戻るといいですね」

「そうですね」

 彩さんは疲労の色濃い顔にわずかな笑みを浮かべた。


 何度も断ったにもかかわらず、﨑里ちゃんは半ば強引に俺を車に押し込み、堅田かたたまで送ってくれた。

「ばあちゃん、心配やな。今日は夜も彩おばちゃんが付き添ってくれるってことな?」

「うん。明日のお昼前に交代しに行けばいいって」

「お父さんは?」

「明日、こっちに来る」

「そうか。お父さん、元気なん?」

「うん」

「﨑里ちゃんは今どこで何しとん?」

「横国の大学院に行ってる」

「じゃあ、ずっとお父さんと一緒に住んどるん?」

「うん」

「﨑里ちゃん、大学の休み取って、こっちに戻ってきたん?」

「うん」

「ばあちゃんの家にひとりでおるん?」

「うん」

 疑問形ばかりの会話が、高校を卒業してから六年という、時の長さを体現していた。


 家に着くと、母ちゃんが飛び出してきた。俺を見るなり顔を曇らせ、それをごまかすようにことさら大きな声をあげた。

「章、ほんとにこの親不孝者が! バカ息子、ようやく帰ってきたな。裕佳子ちゃん、送ってきてくれたん? まあ、この大変な時に、わざわざごめんな。今、彩さんが付き添い? じゃあ、裕佳子ちゃんも上がって上がって! お昼、まだやろ? 大したもんないけど、食べてって!」

 誰にも口を開かせずにしゃべり倒し、ことさら雰囲気を明るくしようと奮闘する母ちゃんに救われた。

「母ちゃん、太った?」

「何やって? 聞こえんわ」

 声も存在感もますます大きくなった母ちゃんとは対照的に、﨑里ちゃんが足音もなく俺の後ろをついてくるのが怖かった。


 家は驚くほど変わっていなかった。取次に敷かれた赤い花柄の小さな絨毯。戸棚で微笑む白い博多人形。銀色の金属フレームに青い羽根の扇風機。台所との間にかけられた茶色の玉のれんもあの頃のままだ。

「父ちゃんは?」

「急ぎの仕事が入って、朝から出勤しとるわ」

 ちらりと﨑里ちゃんに目を走らせたが、うつむいていたので、何を考えているのかわからなかった。

母ちゃんは俺たちを座卓に座らせ、そうめん、蒸し鶏とキュウリの胡麻和え、アサリのぬた、サドの油炒め、ピーナッツ豆腐をつぎつぎと運んできた。

「なんか、酒のつまみっぽくねえ?」

「ビール出そうか?」

 母ちゃんは豪快に笑った。


 そうめんをすする俺を見ながら母ちゃんがためいきをついた。

「章、あんた、料理しとらんやろ?」

 俺はずるずるやりながら上目づかいで母ちゃんをにらむ。すすりこむと、言った。

「何でわかるん?」

「やつれた。昔の父ちゃんそっくりになってしまったわ」

「そうか? ええー、もしかして、息子に惚れた?」

 鼻で笑われた。

「あほ。忙しいんやろうけど、ちゃんと食べんと、いい仕事できんで」

「わかっとる」

 母ちゃんは心配そうな目を﨑里ちゃんにも向けた。

「ほら、裕佳子ちゃんもや! あんたもそげん痩せてしまって、そげんことじゃ、付き添いに耐えられんで。頑張って食べよ!」

「はい、ありがとうございます」

 そう答えた﨑里ちゃんは、本当に生気がなくて、俺はますます不安になった。

「章、あんた、いつまでこっちにおられるん?」

「火曜日の朝まで」

「そうか。じゃあ、ちょっとだけでも、裕佳子ちゃんと交代してあげたらいいわ。おまえ、﨑里のおばあちゃんには、相当お世話になったんやろ?」

「うん、そうや。――あげん元気やったねえな。早よう良うなってもらいたいわ」

 しんみりしそうになったのを母ちゃんがすかさずかき消した。

「そうや、バナナケーキも焼いとったんや。コーヒー淹れるけん、ちょっと待っとき」

「母ちゃん、まだ食べるん?」

「甘いもんは別腹やろ、な?」

 そう言うと台所に消えた。すぐにコーヒーの香りが漂ってきた。


 母ちゃんの絶品バナナケーキを前にしても、﨑里ちゃんの様子は変わらなかった。明るい声で話しかける母ちゃんも、ときおり不安の色が隠しきれない。三時になろうとするころ、そろそろ家に戻りますと﨑里ちゃんが言った。そのまま消えてしまうんじゃないかと怖くなり、引き留めようとしたが、家の片付けもあるから、と断られた。

「ならさ、俺が行ってもいい? 手伝うよ」

 その言葉にこちらを見た﨑里ちゃんの顔には、仮面のように貼りついていた虚無感を押しのけ、非難とも警戒ともとれる表情が浮かび上がっていたが、その下から安堵の色がおずおずと顔をのぞかせているのがわかった。

「こういう時に、ひとりっきりでおるんは辛かろ? 俺にも、何か手伝わせてよ」

「だって、今日、数年ぶりに帰省したんでしょ? お母さんとゆっくり話もしていないし、お父さんにはまだ会ってもいないじゃない?」

「数日はおるんやけえ、今すぐやなくても大丈夫」

「そうやわ、裕佳子ちゃん、こんなやつでも、おらんよりは役に立つ。連れてき!」

 母ちゃんのその言葉に﨑里ちゃんは口をつぐみ、そのあと小さな声で言った。

「すみません、本当は、すごくありがたいです」


 母ちゃんが作った料理をいくつか持たされた﨑里ちゃんが玄関に向かったその後を追おうとすると、母ちゃんが目を丸くし、次の瞬間、にやりとした。

「あれ、章、今日はお泊まり予定?」

 俺は無意識に手に取った、全荷物の入ったリュックを見て、あたふたとした。

「はいはい、父ちゃんにはうまく言っといてあげるけん、そっちはそっちで、うまくやりなさいよ」

 ――うまくやれるんやったら、何の問題もないんよ、母ちゃん。



*  *  *  *  *

野草の名称について、説明を付記します。


サド:イタドリ(スカンポ)の地域名。春先に出た若い部分を採取し、皮をむいてあく抜きして食べます。そのまま生でかじることもできますが、シュウ酸を多く含むため、えぐみと酸味が強いです。塩漬けやニンニク醤油漬けにして保存することもできます。

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