第8話

 六月の長雨の続いたある日、一枚のはがきが届いた。差出人は黒木結衣ゆいと矢野たすくの連名。ふたりの名前を見たとたん、高校一年の自分を押し込めて鍵をかけていたはずの心の倉庫の扉が開き、そこからあらゆるものが勢いよく溢れ出してきた。滔々と流れ出る思い出の奔流に逆らって扉を閉めることは不可能だった。弓道場、プール棟、教室のにおい、朝日の差す教室で食べたレーズンサンド、﨑里ちゃん、“袴の彼”そして矢野っち……。矢野っち。たまらなく会いたかった。でも、会ってどうするん? 辛いままでおるか、より辛くなるか。俺にはそのふたつの選択肢しかないんよ。はがきの宛名書きを見つめながら逡巡したのち、文面を見ないようにして机の引き出しの奥深くにしまい込んだ。


 大学に進学してから今までのまる五年間、一度も帰省しなかった。母ちゃんからはたまには帰って来んかいと何度もメールやラインが来たし、父ちゃんから連絡が来たこともある。でも、帰りたくなかった。自分の砦を失ってしまった今、かつての俺を知る人たちとどうやって関わったらよいのか、もう、わからなかった。


「章、あ、良かった、つながった」

 七月初旬、例年より早めに梅雨があけ、ニイニイゼミが鳴き始めたころ、母ちゃんから電話がかかった。

「あんな、裕佳子ちゃん――もちろん覚えとるよな?――のおばあちゃんが倒れて入院したん。一度、帰ってこられん? できるだけ、早めに」


 電話がかかってきた三日後の土曜日、俺は六年ぶりに帰省した。大阪から小倉まで新幹線に乗り、小倉で洗練された都会的な雰囲気の特急ソニックに乗り換え、それから、九州の朴訥としたイメージを具現化したような無骨なにちりんに乗り継ぎ、一時間。南下するにちりんのうす暗い車内に、目が眩むほどまばゆい夏の海が飛び込んでくると、胸が苦しくなった。


 にちりんが重たげな軋みをあげながら駅に滑り込んだ。子供のころからほとんど変わっていない殺風景な駅。風が吹きっさらす、田舎の駅舎。荷物を詰め込んだリュックを担いで下車し、ひとつしかない改札口に向かう俺の目の前を、青と臙脂えんじの鳥が、ひらりと横切った。下車したのは俺を含め三人だけだった。改札を通過した俺の目に飛び込んできたのは、心もとなげにこちらを見つめる﨑里ちゃんの姿だった。

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