その事実が俺の砦を完膚なきまでに打ち崩してしまった。

第7話

 四月に二年生になると、プール棟の教室を出て、中庭に面した本館の三階に並ぶ教室へと移動した。﨑里ちゃんとは別のクラスになった。さすがに別のクラスの教室に行ってまで彼女に絡むのは気が引け、つるむ機会はほぼなくなった。俺がぱたりとちょっかいを出さなくなったことで、川野とは別れた説が流れ、﨑里ちゃんを狙う男子が一気に増えたらしい。いいやつを見つけて幸せな時間を過ごしてほしい、心からそう願った。

 川野竹史のなかに“袴の彼”の面影を探させないためには、竹史の亡霊から﨑里ちゃんを解放するには、もう、父ちゃんとも俺とも会わないに越したことはない。ちょうどよかろ。別のクラスになったタイミングで、俺はそう思うようになっていた。俺はもう、﨑里ちゃんの心の支えにはなれない。「何もしてくれなくって、いい、ただ、自分がこんなに苦しんでいることを知っていて、自分を見守ってくれている、そんな人がそばにいるんだって思うだけで、少し元気になれるってこと、あるでしょ」。あの日、そう言ってくれた﨑里ちゃんの言葉を、俺も、もう忘れようと思った。そのとき、裸で震える俺の周囲に築いてきたなけなしの砦から、最初の小石が崩れ落ちた。


 﨑里ちゃんの存在は思っていた以上に大きかったことを俺はこのあと嫌と言うほど思い知らされることになる。


 矢野っちと俺は三年間同じクラスで、俺はひたすら彼の後ろ姿を見ていた。


 三年生になると生活は受験一色になった。俺は大阪の公立大を目指し、何とか滑り込んだ。矢野っちは東大狙いやろうと思っとったのに、なぜか京大を志望し、当然のように合格した。﨑里ちゃんは横浜国立大に受かった。これで、川崎に戻るんやろう。黒木ちゃんと村居っちは地元の国立大に、美羽は看護科学大学に進むことが決まった。


 俺のことを誰も知らず、誰も気にしない街で送る大学生生活は、気楽だった。大阪の、慌ただしくてうるさくって、懐っこいのに同時に放っておいてもくれる都会的な雰囲気は心地よかった。でも、いろんなことが億劫になった。まず、ほとんど料理をしなくなった。食べてくれる人がいることが、俺の中での料理の楽しさの原点だったと知った。食欲旺盛な母ちゃんとくるみだけやなく、あの、食べることに興味のない父ちゃんだって、いてくれるっちゅうだけで全然ちがったんやな、ひとりになって、今更のようにそれを実感した。料理を作らなくなると、食べること自体への興味も薄れた。確かに俺は、母ちゃんと父ちゃんふたりの血を引いていたようだ。


 大阪に出てきたって、俺が誰かと恋愛できることはなかった。できるはずもない。だって、俺はいまだに矢野っちを思いきれんかったんやから。何年たったって、矢野っち以上に好きになれるやつなんて現れんかった。それに、大阪に出てきたって、俺は誰にも自分の指向のことを明かす勇気が出せんかった。そげな自分の意気地なさが情けなくて、辛くて、仕方なかった。自分がどんどん卑屈になっていくのがわかった。夜、ひとりで部屋にいると、いくどとなく、あの言葉がよみがえってきた:「何もしてくれなくって、いい、ただ、自分がこんなに苦しんでいることを知っていて、自分を見守ってくれている、そんな人がそばにいるんだって思うだけで、少し元気になれるってこと、あるでしょ」。もの言いたげな視線を振り切って自分から遠ざかっていったくせに、あの、眉をひそめてこちらをにらむ、彼女の強いまなざしが懐かしくてたまらなかった。俺の砦はゆっくりと崩壊し続けていた。


 苦しくて、虚しくて、もうどうしようもなくなったとき、何かにすがりつきたくて、とあるサイトで探し当てた同じ指向の人と会ったことがある。三回生のときのことやった。会って、すぐにそういう雰囲気になって、やることをやった。いや、やってみようとした。結果的に、打ちのめされてしばらく立ち直れなかった。もっと楽しいもんやと、我を忘れるほど気持ち良くって精神的にも満たされるもんやと思っとった。自分が、女が駄目という以前に、人と肌をあわせることに耐えられないという、さらに根源的な問題を抱えていたんやと、その時はじめて思い知らされた。呆然とした。俺、ここまで異常な人間やったんか。その衝撃が俺の砦を完膚なきまでに打ち崩してしまった。


 暗闇の中で、ふと﨑里ちゃんのことを思い出した。射場で彼女に手首を握られ、気持ち悪さに固まり、同時に、そげな反応をしてしまった自分への驚愕と嫌悪で落ち込んだこと。あれは女に触られたからというだけではなかったんや、いまさらのようにそれを理解した。


 矢野っちと寝たら、どんな気分なんやろう。やっぱり、気持ち悪さに耐えきれず、でも恋しくて……。大海原に浮かぶ筏の上でのどの渇きを訴える人のように、ただただ悶え苦しむしかないんやろうか。


 大学を卒業して、俺は大阪の小さな町工場に就職した。大手の下請けをしながら、研究開発用の特殊加工についても請け負うことのある製作所やった。大学の研究室にいたときに、直属の先輩が設計した装置の要となる部品の加工について、アドバイスをもらいがてら見学をさせてもらった会社だ。従業員は七人しかいないけれど、それぞれが金工の卓越した技術を持っとって、俺はそれを学び取るのに無我夢中やった。自分の手を使って物を作り出すことはたまらなく楽しかった。手がけるんは、自分には想像もつかない何か大きな機械や何か複雑な装置に組み込まれる、たったひとつのささやかな部品でしかない。でも、欠くことのできない部品を作っているということに、心が躍った。綿密に設計し、丹念に削り出し、曇りなく磨き上げると、いつも達成感に満たされた。作業に没頭している間は自分がフツーでないことを忘れていられた。

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