第4話

 食事会は、俺が恐れていたような修羅場や愁嘆場にはならんかった。初めのうち、しゃべっていたのはばあちゃんだけで、祐介さんと父ちゃんがときどき短い返答をするだけやった。でも、ばあちゃんが冷蔵庫から出してきた500mLの缶ビールを二本空けたあたりから、しだいに祐介さんの口が滑らかになっていった。俺が仰天したのは、父ちゃんも﨑里ちゃんのばあちゃんの勧めるビールを断らんかったことや。父ちゃんが酒を飲むんなんて見たことがなかった。缶からグラスに半分ほど注ぎ、ちびちびと口を付けている。ちっとも旨そうに見えないのが父ちゃんらしかった。﨑里ちゃんは押し黙ったまま、ホゴの煮つけをつついている。


「﨑里ちゃん、あ、裕佳子ちゃんさあ、骨のついた魚あんまり食べたことねえんやろ? 骨の走り方を知らんと、食べにきいよな。あんな、こう、半身ずつ、背側、腹側と背骨から剥がすようにして身を取るといいんで」


 俺が自分の魚をほぐして見せると、﨑里ちゃんは目を上げて、俺の手元に目を凝らしていた。


 祐介さんがそれを見ながら言った。

「このホゴの煮つけ、美味いな。向こうじゃ、こういうのはなかなか食べられん。でも、昔食べよった母さんの煮つけの味となんか変わった気がするわ」

「それ作ったん、章くんよ。私が作るんより、美味しかろ? 今日の料理はほとんど章くんの手作りやけんな」

 ばあちゃんが祐介さんに説明すると、祐介さんは驚いたような目を俺に向けた。

「はあ? 章くんが全部作ったんやって? なしてこげん料理ができるんな?」

「俺、作るんも食べるんも、好きなんで。食べたいものを作りよるうちに、いろいろ作れるようになりました」

「――お母さんは?」

 すぐに、何を意図した質問なのか察したが、そらとぼけた。

「母ちゃんも料理うまいですよ。俺の料理は母ちゃん仕込みです」

「いや……ああ、そうな……そうか」

 三月末日には、母ちゃんたちと再同居することが決まっとった。だから別居していたことについて明かす必要はない。


「で、うちの娘とは、どういう関係なんな?」

 俺が返事をしあぐねていると、ばあちゃん――ばあちゃんもこの日はビールを飲んでいた――が楽し気に言った。

「もう、お泊りしていく仲やもんな?」

 祐介さんは一瞬目をむいた。﨑里ちゃんがすかさず口をはさんだ。

「でも大丈夫よ、お父さん、ちゃんと避妊には気を付けてるから」

 俺は頭を抱えたくなった。でも、﨑里ちゃんから以前聞いた話だと、そのあたりの感覚は確か相当ずれていたはず。案の定、あっさりと、そうか、と言って黙ってしまった。うん、これは聞きしに勝る変人ぶりや。むしろ動揺したのは、これまで黙り込んでいた竹史のほうやった。

「章、本当なんか?」

「ええー? だって、父ちゃん、避妊しないほうがまずいやろ?」

 ついそう切り返すと、父ちゃんは微妙な表情を浮かべて絶句した。﨑里ちゃんがその顔を真顔で見つめている。それを見て、俺は奇妙な感覚に襲われた。﨑里ちゃんの肩をつかんでこちらを向かせたかった。竹史のことを追うのは、もう止めてもらいたかった。――これって、もしかして嫉妬なん? いや、それはありえん。俺に限って、それはありえん。嫉妬ではなく、うちの家族を守りたいんや、そう思おうとした。

「祐介、すまん」

 父ちゃんが苦しそうな表情になって、頭を下げた。父ちゃんのそげな姿を見ちょるんは嫌やった。でも、本当のことを明かして安堵させる気にもなれんかった。

「﨑里ちゃんのお父さん、俺たち、将来のことも、まじめに考えています。謝らないといけないような関係じゃないです。さき――裕佳子ちゃんと付き合うこと、認めてください」

 俺のその言葉を祐介さんは意外なほど穏やかな表情で聞き、﨑里ちゃんを見つめた。

「裕佳も、もうそげな年頃なんやな。早いもんやな。裕佳が選んだ男なら、お父さんは何も言わん。それは裕佳が決めることやけんな」

 そして竹史のほうを向いた。

「たけ、これはおまえが出る幕やないし、そもそも謝るようなことやなかろ?」

 一呼吸おいて、わずかに口元を緩め、再び、しみじみとした口調で呼びかけた。

「たけ、おまえ、年取ったなあ。まあ、人んこたあ言えんけんど。――元気に、しちょったんか?」

 父ちゃんはゆっくりと顔を上げ、初めて祐介さんと目を合わせた。震えるような静かなため息が漏れた。

「ゆう、ほんに久しぶりやな。おまえと、また、こげんしゃべれる日が来るとは――思っとらんかった」

 ささやくように付け加えた。

「容子のこと、残念やったな。今朝、ここに来る前に墓に参らせてもらった」

 父ちゃん、そげなことをしとったん。

「そうやな。早すぎるわな。孫の顔すら見ずに、逝ってしまったけんな」

 そしてコップのビールを飲みほした。

「今日は、しばらく付き合ってくれるか? おまえ、あの頃から、結構飲めたよな?」

「……おう」


 そのやり取りを聞いていたばあちゃんが、焼酎の瓶とカボスと氷を運んできた。ふたりは焼酎のロックにカボスを絞り、飲みながら、ぽつりぽつりと昔話を始めた。とても、会話が弾んでいるとは言えん様子やったけど、話はいつまでも途切れることがなかった。


 父ちゃんの様子をちらちらと見ていた俺は、父ちゃんが安らいだ表情を浮かべているのに気づかざるを得なかった。俺が今までほとんど見たことがないくらい、屈託のない表情。これも﨑里ちゃんのおかげや。﨑里ちゃんとふたりで話をしたというあの日、きっとその日に、父ちゃんを押しつぶそうとしていた憑き物のいくつかが落ちるような何かがあったんや。﨑里ちゃんは俺にはなにも言ってくれんけど、もう俺はそう確信しとった。

 憑き物をいくつか落とした父ちゃんは母ちゃんを受け入れ、くるみを気遣い、ほぼ崩壊していた俺たち家族はまたひとつになれた。﨑里ちゃんが竹史のために何をしてくれたんか知らんけど、でも、それは父ちゃんに母ちゃんとの再同居を決意させ、﨑里ちゃんから竹史を遠ざける結果となった。

 そして今日、右手で祐介さんの、左手で竹史の首根っこを押さえ、三十年以上にわたって絶交していたふたりを有無を言わさず向かい合わせるという、恐ろしい暴挙に出た。祐介さんはなぜか素直に竹史に向き合い、竹史も――これまでやったらこげんことをされたら、もう絶対に無言で﨑里家を後にしていただろうに――黙って祐介さんの目を見た。ふたりを隔てる、暗く底知れぬ地の裂け目が消失したわけではない。でも、そこに細い丸木橋がかかったように見えた。祐介さんと竹史の再会は、﨑里ちゃんからさらに竹史を遠ざからせた。

 彼女のことだ、そうなると予想できとったはず、それでもやらずにはいられなかったんやろう。


俺はちらりと﨑里ちゃんを見た。初めて自分で揚げたチキンカツを食べようとしちょる。

「﨑里ちゃん、あ、裕佳子ちゃん、うまく揚がっとろう?」

 にこりともせずに答える。

「……うん、美味しい」

「あっ、そうや、父ちゃんたちが出来上がる前に、あれ、持ってこんとな」

 俺はそう言うと台所に戻り、オーブンの中で冷めかけていたキンカンのフレンチトーストをもう一度温め、居間に運んで行った。

「裕佳子ちゃん、明日誕生日やけん、今日みんなでお祝いしよ! ケーキじゃなくて申し訳ないけど」

 ばあちゃんが目を細めた。

「あら、まあ、章くん、こげなものまで作ってくれたん? 男ん子やいうのに、ほんに見事な腕前やな。祐介、あんた料理なんて、できるん? ご飯、どげんしちょるんな?」

 祐介さんは苦笑いした。

「まあ、何か適当に食べちょんわ。病院にゃあ食堂もあるし。章くんがすごいんは認めるけどな。男ん子でここまで料理ができるなんち、大したもんや。裕佳、今年の誕生日会は賑やかくて良かったな」


 みんなにキンカンのフレンチトーストを取り分けた。祐介さんは甘いものもいけるようで、うまいうまいと顔をほころばせながら食べてくれた。﨑里ちゃんとばあちゃんも、もちろん、食べている。﨑里ちゃんに少し笑顔が戻り、俺はほっとした。ふだん、甘いものなど一切食べない父ちゃんが食べるのかどうか不安だった。

「……父ちゃん、食べる?」

 小声でたずねると、なんと、食べると言う。やれやれ、今日はなにもかも、キツネにつままれているような気分やな、そう思いながら、俺は取り分けたフレンチトーストを父ちゃんに渡した。



*  *  *  *  *

海産物の名称について、説明を付記します。


ホゴ:カサゴの地域名。味噌汁に入れたり煮付けにしたりするとおいしいです。

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