第3話
「母さん、裕佳子、ただいま」
その声が聞こえ、それが誰のものなのかを理解した刹那、俺は頭をぶん殴られたような衝撃を受けて、手にしていた鍋を取り落としそうになった。とっさに居間に飛び込んだ俺の目に入ったのは、開いたドアに右手をかけたまま立ちすくむ﨑里ちゃんのお父さんと、声の主に目を向けることすらできず硬直した父ちゃん、そして父ちゃんの横に座り、怒ったような顔で祐介さんをにらむ﨑里ちゃんやった。
まるで竹史を祐介からかばうかのように。あるいは、竹史を祐介に奪われまいとするかのように。
「お父さん、早朝からの移動、お疲れさま。――どうして中に入らないの?」
祐介さんはそれでも無言のまま、呆然と竹史を見ていた。その表情に嫌悪、拒絶、それに侮蔑の色を読み取ってしまうことを俺は恐れていた。でも、不思議なことに、どんなに目を凝らしてもそれらを読み取ることはできんかった。驚愕に見開かれていた目はゆっくりとすがめられ、そこには当惑と慙愧の念がおぼろげに浮かんでいるように思えた。
「川野、こっちに来て」
俺は体も頭の中もじいんと麻痺したまま、言われるがまま、ふらふらと﨑里ちゃんの隣に行った。
「お父さん、こちら、川野章くんです。こちらは、お父さんも良く知ってるよね、章くんのお父さまの竹史さんです。私たちまじめに家族ぐるみのお付き合いをしています。今日はお父さんにも紹介しておこうと思って、お父さんが来るのに合わせてふたりをお招きしたの」
唖然とした。彼女が何を企んでこげんことをしとるんか、とっさに理解できんやった。でも、彼女のこの迷走が、突然小嗣竹史を失ったことによる精神の不安定さに起因していることだけは、はっきりわかっとった。小嗣竹史が消えたことがどれだけ﨑里ちゃんの心をえぐり、そのあとに残された心の闇がどれだけ深いものやったか、そのとき、改めて思い知らされることになった。
でも、彼女に憐情を感じるのと同時に、俺は父ちゃんがこれ以上傷つくのを見ていたくなかった。父ちゃん、いや、高校生の小嗣竹史は﨑里祐介に恋していたはずだ。当時、いったいどういう関係やったんか、その後、ふたりの間に何があったんか、俺は知らん。でも、祐介さんは高校二年のときから容子さんと付き合っていたんやから、その時点で、竹史の祐介さんへの恋は完全に片思いだ。それに“袴の彼”が男装の、つまり祐介さんの姿をまねた﨑里ちゃんに抱きしめられて消えてしまったということは、それが“袴の彼”の願いだったんやなかろうか。ということは、高校生の竹史の恋は実ることはなく、父ちゃんはそのころからずっと、報われなかった恋に縛られていたんやろう、俺はそう想像しとった。小嗣竹史が消えてしまった今、鬱積した思いは昇華したのか、それとも心の奥底に浸潤し、今でもひっそりと父ちゃんを蝕んでいるのか、俺にはわからなかった。
いっぽう、小嗣竹史の消失が﨑里ちゃんを浸食し続けとるんは間違いなかった。
祐介さんと竹史は、今やそれぞれが家庭を持ち、完全に没交渉だ。﨑里ちゃんに見せてもらった昔の写真からすると、かつてふたりは親友同士だったはず。でも、俺は父ちゃんの口から祐介さんのことを一切聞いたことがなかった。﨑里ちゃんのほうもお父さんから竹史の話を聞いたことはなかったという。どこかでふたりの人生を完全に乖離させる事件があったことに間違いはないだろう。それは竹史の恋を祐介さんが拒絶したことやと考えられんやろうか? それも、手ひどく。
父ちゃんは身をこわばらせたままだ。でも、その表情には、不思議と、俺が恐れていたほどの悲壮感はないように思えた。
「さき――裕佳子ちゃん、ばあちゃんは?」
﨑里ちゃんは目を怒らせたまま俺に向き直った。
「花瓶を探しに行ってる。竹史さんがお花を持ってきてくれたから」
そこにタイミングよくばあちゃんが花瓶を手に戻ってきた。
「やっと見つけたわ、うちは花なんて飾らんけえねえ――ええ?! 祐介やないの!? ええ、どうしたんな? 珍しいな、連絡もせんで帰っち来るなんて。何をそげんとこに突っ立っとるんよ、早よ中にお入り。ああ、ちょうど良かったわあ、ほら、ほら、竹史くんが来てくれちょるんよ、懐かしかろ? この前も来てくれてねえ――」
ばあちゃんが二人を交互に見ながら楽し気に話し始めたのを確認して、俺は﨑里ちゃんを廊下に連れ出した。
「﨑里ちゃん……頼む、今日はもう、何もしゃべらんといて? な?」
﨑里ちゃんは眉根をきゅっと寄せたまま、答えなかった。
俺たちが居間に戻ると、祐介さんはようやく座卓に座り、ばあちゃんは楽し気にあれやこれやの昔話を一人語っていた。ばあちゃんのやや鈍感ともいえる明るさ、押しの強さが、この時は本当にありがたかった。
「さ――裕佳子ちゃん、残りの料理持ってくるの手伝ってや」
﨑里ちゃんから目を離すのが怖くて、俺は台所に連れて行き、一緒に皿に盛った料理をお盆にのせ、運んで行った。
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