第16話 このこたちときたら❤

 お嬢は、あの霧をたった一人で越えてきたようだ。


 ナツメは、仕組みさえ知っていればそう難しいものではないと言っていた。その言葉に嘘偽りは無いのだと思う。


 実際、やったことと言えば少しの距離を恐れずに突き進むだけ。

 確かに難しいかと言われれば、難しくはないのだ。やっていること自体は。

 小さなネズミのお嬢では、一人でやることが不可能――という種類の難しさはない。


 だが、口で言うのと実際にやるのとでは大違いで、視界を全て防がれて、前も後ろも右も左も分からず、どっちが進行方向かも分からぬままに足を止めずに歩き続けるという行為は、とてつもなく勇気がいる。


 私は、恐怖と不安で心が押しつぶされそうになった。

 そうして足は止まってしまい――そうこうしてる間にも、霧はすぐに晴れてしまうのだ。


 私は一人じゃとても――ナツメがいてくれなければ、多分、怖くて足がすくんで無理だったと思う。


 お嬢は、それを一人でやったのだという。

 あんなに小さな体で、怖がりだって聞いていたのに。私のことが心配で? たったそれだけのために?


「お嬢。そうまでして何か言いたいことがあったのではないのか?」


 ナツメの呼びかけには、依然として反応がない。お嬢はおそらく、曲がり角の向こうで震えているんだろう。


 ナツメはやさしい。ナツメだけなら出てくることは容易いはず。

 だけどここには、今まで見たことがない、お嬢よりずっと――何十倍、いや何百倍もの大きさの身体からだをしている女子中学生がいる。


 しかもそいつは、背伸び気味のちょいギャルメイクをした私なのだ。初対面でいきなりあんな塩対応をしてきたなんちゃってギャルだ。


 小さなネズミになってしまっている今のお嬢から見れば、簡単に踏み潰されかねないと思えるほどの巨躯――例えるなら、誰もが知ってる人気漫画に出てくる超大型巨人のように見えているに違いない。


 怖がりだとかそういう話じゃない。そんなん、誰だって怖いに決まってんじゃん。

 それなのに、お嬢は。初対面の時も、私を助けようとしてくれた。


「お願い。出てきてくれる? 私、お嬢とちゃんとお話がしたい」


 そして……ちゃんと謝りたい。


 やはり反応は無かった。が、辛抱強く待つ。お願い、出てきて。そう願いながら。

 数十秒待つと、こわごわといった感じでぴょこりとお嬢が顔を覗かせてくれた。

 勇気を振り絞って顔を出してくれたのだろう。本当に頑張り屋さんな子なんだなと思った。


 初めてみた時は泥水を啜っていた衝撃もあって気持ち悪いと思ったが、お嬢の人となりを知ってから見ると、このような姿になってなお、隠しきれないやさしさと勇気を感じる顔立ちに見えた。


「私のためにあの霧を越えて来てくれたんでしょ? 凄いね。ほんと凄い。それから気にかけてくれてありがと。私もね、お嬢のことが気になるの」


 おずおず……という感じでお嬢が曲がり角から出てきた。ゆっくりと遠慮がちにこちらに近づいてくる。


「お嬢、ごめん!」

「ご、ごめんなさい」


 私は何よりも先に、開口一番思い切り頭を下げたのだが、お嬢も同時に私に謝ったようだった。お嬢の声質は小さな女の子のように可愛らしい。

 最初に会った時は不釣り合いに聞こえて不気味に感じたが、今となっては思う。

 お嬢にぴったりの声だと。

 月並みな言い回しになるが、鈴を転がしたような愛らしい声である。


「え……何?」


 お嬢は、キョトンと首を傾げた。なんで謝るの? と聞いているのだろう。


「初めてあった時、私のこと、助けてくれようとしたんだよね? なのに私、お嬢にすごく失礼な態度とっちゃった」


 お嬢は目を丸くして驚いて、ぶんぶんぶんぶんと強く頭を振った。


「ボクも最初、黒猫たちのこと怖かった。だって、猫なのに喋るから。変だなって」

「ニャニャミャイは猫ではない。名前は……ナツメだ」

「ナツメ?」


 ナツメが、自らナツメと名乗ってくれたのを見て、なんだか胸が暖かくなった。

 お嬢は、またしても目を真ん丸に見開いて驚いていた。

 お嬢はリアクションがとても素直でかわいらしい。


「もしかして新しいお名前、貰ったの?」

「ああ。長く生きていると、たまにはそんなこともあるらしい」

「さすが、稀人まれびとさんだ」


 お嬢は、とても嬉しそうに顔を綻ばせた。

 

「うん。分かった。じゃあ……ナツメ。それで、あの時は、ボク、ごめんなさい」

「本当にな。手を焼かされたものだ」

「ボク、今は、ナツメはとっても綺麗だと思ってる」


 ナツメは少したじろぎ、照れたように顔を洗った。ちきしょう、かわいいな。

 ここは、私も負けてはいられまい!


「じゃあじゃあ、私だって! 今はお嬢のこと凄くかわいいと思うよ」

「一体、何に対抗心を燃やしておるのだククリは」


 お嬢も、恥ずかしそうににっこりと笑った。よし、くっそかわいいなちきしょー。

 なんでこの子のことを気持ち悪いだなんて思ったんだろう。


「でも、なんでお嬢は私に謝ったの?」

「ボク、逃げ出しちゃったから。あの時ボクが、ちゃんともう少し頑張っていれば稀人さんは迷わずにす……わ!」


 何を言おうとしているのかすぐに理解出来て、思わず小さく愛らしいネズミを抱きしめてしまった。

 そんなことを言うために、あの霧を越えてくるなんて。いい子にもほどがある。

 すりすりと頬ずりした。


 もう、お嬢の身体からだが汚れているとか――そういうのは気にならなくなっていた。

 この子のことを、汚いだなんて思えるわけがない。

 

 そんな私達を満足気に見つめながら、ナツメは言う。


「言ったであろう? 何も気に病むことはない。ここに暮らすものは、そうはならんよと」


 ナツメは、私達の間にしこりが残ったまま別れさせるのは酷だと思ったのだろう。だから多少強引にでも、このような場を作ってくれた。

 本当によく気が効く子猫なのである。


 この子たちときたらほんとにもう! なんでこう人のことばかり……やっぱり決めた!


 私は絶対に! この子たちを。

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