第2話 おいしそうなどろみず❤

 雑居ビルが所狭しと隙間なく、びっしりとひしめいている。そのビルとビルの合間を縫うように細い道が奥へと続いていっていた。


 路地は高い壁に囲まれているので、日光が遮られてしまっている。

 そのせいか、まっ昼間だというのにまるで夕暮れ時のように薄暗くて、なんだかとっても肌寒かった。


 さ、さむっ!


 ぶるりと身震いをしてしまう。寒さを紛らわせようと、両腕で身体からだを包み込むように腕を組んだ。


 思わず、ゴクリと生唾を飲み込む。

 この悪寒はきっと、単純に気温のせいってだけじゃない。


 こーういうの、何ていうんだっけ? 薄暗闇うすくらやみ、とか?


 到底、昼日中ひるひなかだとは思えない暗さ。

 おどろおどろしいとでも言おうか……ここだけ時間の流れが異なってしまっているかのような感覚に陥ってしまう。他の場所とは明らかに何かが違い、ズレてしまっていると感じる。


 妙な薄暗さのせいなのであろう。うちだと言うのにすでに街灯の灯りがついているようだった。

 街灯は電球が切れかかっているようで、耳障りの良くない音を立てながら、不規則に点滅を繰り返している。


 ジージジジージージジ……ジ…………ジ……チカチカカッチン……ジジッジ……ジ……。


 それが、余計に恐怖感や嫌悪感を煽る演出として機能しているように思えた。


 街灯の影は、太陽が最も高い位置に来る時間帯であるにも関わらず、まるで黄昏時たそがれどきであるかのように妙に長く伸びている。

 街灯の点滅に合わせて影が濃くなったり薄くなったりしていた。


 き、気のせいだよね?


 錯覚だろうか? 街灯の点滅による影の濃淡のせいなのかも知れない。

 確か、明るいと膨張して見え、暗いと収縮して見えるとかなんとか……メイク動画か何かで見た記憶がある。そのせいなのかな?


 影が少し揺らめいて見え、まるで意志を持って動いているかのようにも思える。

 自分の影を確認してみると、これまた長く長く伸びていて、もはや人の形を失ってしまっている。なんだか、違う生き物みたいに見えるのだった。


 なになに? 怖いんですけど? なんかモンスターみたい。


 怖さ半分。期待半分。見てはいけないものだから見たくなる。怖ければ怖いほど、なぜか強く惹かれてしまう。

 だって、そこには冒険の匂いがするから。

 恐る恐る。ゆっくりだけど確実に、足を一歩づつ前へ前へと踏み出して行く。


 怖いのに……んー違うか。怖いから逆に? 


 恐れはあるが、それを好奇心が上回っているのだ。何かに誘われるように路地の奥へ奥へとどんどん足を踏み入れて行く。


 路地の中に入ってみると、道は太くなったり細くなったりしていて、しかもぐにゃぐにゃと曲がりくねっていた。

 今にも崩れて来そうなくらいに古めかしい高いレンガの壁が、道の両側に、道を囲むようにして立っている。レンガの壁には、無数の落書きがしてあった。


 落書きは、ストリートアートのようなものは当然として、何の文様なのかよくわからないロゴマークや、宗教画のように美しいもの。十字架。お経か念仏のような文字の羅列。悔恨極まった懺悔の言葉。遺書とおぼしきもの。


 中には、恨み節のような不平不満の殴り書きや、誰かへの殺害予告らしきものまで……実に様々な落書きがあった。


 そして――その落書きの上を、ゴキブリやムカデが縦横無尽に這い回っている。


 うえぇ……まじかー。何これ全然エモくないじゃーん。


 歴史を感じさせるみやびな雰囲気の古びたレンガの壁を見つけたときは少し心がときめいたものだが、中に入って、その実態が分かったのだった。


 どうやら、そそり立つレンガの壁のこちら側だけが暗くなっていて、あちら側は普通に明るいようだ。今は昼のさなかであるはずだが、ここだけがまるで逢魔ヶ時おうまがどきであるかのようで、もの凄い異質感を感じさせている。


 レンガ壁が防音壁のような役割を果たしているのか、路地は不気味なほど静かで、壁の向こうの街の喧騒も一切聞こえてこない。


 このレンガの壁はまるで、境界線だ。路地と周囲との空間を切り分けるために存在しているかのようである。


 ダンジョン――という単語がふと頭をよぎる。

 この路地には、ここが周囲から隔絶された空間なのだと強く感じさせる何かがあった。


 勇気を出してさらに足を踏み入れていく。

 土が剥き出しの道はと言うと、丸められた古新聞や、割れたガラス瓶の破片などが散乱している。

 その上、道は軽くぬかるんでいるようで、湿った落ち葉が地面の土に張り付いているようだった。


 踏みしめた時の土の感触が少し柔らかい。むにゅっとわずかに沈み込むような感触があり、快適に歩けるとは言いがたい道である。


 うっわ……靴よごれんなこれ……あーもう、泥だらけじゃーん。お気にのやつ。マジ最悪。


 片足を上げ、泥まみれの靴裏を見てため息をつき、ウンザリとした気分で周囲を見回す。

 ところどころに、汚らしく茶色く濁った水溜りが出来ていた。


 んー? 最近、雨とか降ったっけ?


 水溜りの一つに、灰色のネズミ? らしき小動物がいて、チロチロと舌を出してその水を啜っていた。見るからに不潔そうな薄汚れたボサボサとした毛並みをしていて、目は怪しく赤く光っている。


 うわぁ……まじ? 泥水飲んでるし……キモォ。あれ、ネズミ? ドブネズミってやつだよね? 実物見たことないし知らんけど。

 てか、どうせ会うならハムスターとかが良かったなー。それならかわいいだろうし。


 なんだか薄気味悪かったので、水溜りを大きく迂回して壁際ギリギリまでよる。壁に背中をつけるようにしてそっとその横を通ろうとしたが……駄目だった。


 ネズミはこちらに気づいたようで、ビクッと反応するようにこちらを振り向いた。

 お互いの目があうと、ネズミは怪しく光る赤い目を丸くして、ピタリと動きを止める。

 そして、警戒心の強い眼差しを投げかけてきた。


 慌てた私は、ネズミに言葉が通じる訳がないのは分かっているが、必死に言い訳じみた言葉を口走ってしまった。


「あ、いや。あのー。ダイジョブ。邪魔する気は、ないんで。お、おいしそうだよねー。あ、でも私はいいから。お構いなくー。今、喉乾いてないし?」

「も、もしかして稀人まれびとさん? こ、こっちに来ちゃだめ。こ、ここ、ここにはいろいろなルールがある。行きも怖いけど、帰りはもっと怖い。このまま天神様の細道を進むと、どんどん夜が深くなって、そのうち帰れなく……」


 心臓を鷲掴みにされたような感覚。

 咄嗟に、びくりと背筋を伸ばしてしまった。あまりのことに気圧されてしまったのか、気づかぬうちに自然と一歩、後ずさっていた。


 聞き間違えだろうか? まるでネズミが、人の言葉を話そうとしたかのように聞こえたのだ。


 幼い女の子みたいな、妙にかわいらしい声だった。

 汚らしいドブネズミの姿とのギャップが、不気味さをいや増している。


 え? 今の、な、何? ネズミってこんな風に鳴くんだっけ? ……いやまあ、実際にどんな風に鳴くのかは知らんけど、チューチューとかそんな感じなんじゃないの?


 私の恐怖と嫌悪感が入り交じった非常に大げさなリアクションは、ネズミにとってかなりショックなもののようであった。

 勿論ネズミなので人間同士のように表情が読めるわけじゃない。それでも分かってしまうほどに、ネズミはとても悲しそうに見える表情を作ったのだ。


 あ……。私、今もしかして……なんかやっちゃった?


 とても暖かなものを、冷たいナイフの刃で傷つけてしまった。そう感じたのだ。


「あ、あの……ネズミちゃん?」

「ボ、ボク、ボクはこんなんだけど、ゴミ山の賢者はとっても綺麗な子。まるで暗い夜道を照らしてくれるお月さまみたい。す、凄くいい子だし、ボクと違って勇気もあって頭もいい。何かあったら黒猫を頼って。きっと力になってくれる」


 ネズミは、それだけ言うと道を小走りに横切りながら逃げるように去っていってしまった。


 なんだかよく分からないが、た、助かった? と安堵しかけた次の瞬間、息を飲む。

 自分の目を疑った。去っていくネズミの影が――なぜか人の形、小さな女の子の形をとっているように見えたのだ。


 ネズミが見えなくなると、強張っていた肩の力が抜けるのを感じた。危機は脱したのだという大きな安心感。

 しかし……それと同時に、何か胸に小さな棘が刺さっているのを感じる。


 あのネズミは、人の言葉を話したように見えた。

 本当に人の言葉を話したのかどうかは今となっては確信が持てない。非日常を感じる空間。高揚する気持ちが見せた幻覚のようなものだったのか?


 だがそんなことより何より、もっと大切なことがあったはずだ。


 もしあれがいわゆる怪異とかの類であり、普通のネズミでは無かったのだとしても、ネズミには、こちらを攻撃する意志などまるでないように見えた。

 いやむしろ、今になって思い返してみると、何か大切なことを教えようとしてくれていたようにすら……それを私は。


 ネズミはネズミで、私に驚き、怖がっていたように見えた。それなのに勇気を出して何かを言おうとしてくれていた。恐らく、私のためを思って。


 ネズミの浮かべたとても悲しげな表情が脳裏から離れない。忘れてしまいたいけど、あの顔は、忘れてはいけないものだとも思った。


 もし次に、同じようなことがあったならば、今度は絶対にあんな態度をとっちゃいけない。

 私は心にそう強く誓ったのだった。


 そして事実として――私はこの後すぐに、思い知らされることになるのだ。

 ネズミの忠告を無視したことを、深く後悔させられる羽目になるからだ。

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