第24話 それが、生きるってことだと思うから。
時刻を確認すると、午後三時一二分。ついに来てしまった。私は戸棚に向かい〝お守り〟を手に取る。それは一年前、偶然出会った警官のゾンビから拝借したものだった。
正式名称は「ニューナンブM60」――日本警察で正式採用されている拳銃の一種だ。装弾数は五発のリボルバー型。一九六〇年から正式に運用されてから三十年間、日本の主力拳銃として活躍して、生産終了後の現在も使用されている……らしい。最初にこの銃を手に入れた時は興奮した。クロスボウだけじゃなくて、拳銃まで手に入ったら鬼に金棒。大抵の状況は何とかなる。でも、一つだけ、問題があった。
この拳銃に残された弾丸は一発のみだった。つまり、使い切りってこと。一発撃ったら、あとはただの鑑賞用の置物にしかならない。
はっきり言って、一発しか撃てない銃なんてものは何の役にも立たない。殺せる数は一体だけなのに、馬鹿でかい発砲音を鳴らして、更にゾンビを引き寄せる可能性がある。唯一、使い道があるとしたら〝自決用のお守り〟だろう。ゾンビになって死ぬよりは頭を撃ち抜いて死ぬ方がマシ。まさか、本当にそうする日が来るとは思わなかったけど。
拳銃を手に取る。以前、持った時よりも……重く、冷たく感じる。手が震え始めた。大丈夫、怖くない。怖くない。私はこれまで出会ったゾンビの姿を思い出す。ここでやらないと……私も、あいつらのようになる。それだけは死んでも嫌。これしか、選択肢はない。何度も自分に言い聞かせているうちに、震えは自然と止まった。
この銃には安全装置が付けられていない。あとは引き金を引くだけでいい。目を瞑り、最後に深呼吸をして、心を無にする。
………………あぁ、死にたく、ないな。
最後に、ずっと押し殺していた感情だけが残ってしまった。死にたくない。死にたくない。死にたくない。でも、ここまで来たら、引き返せない。
ふと、また紅葉ちゃんの顔を思い出してしまった。もしも、このまま引き金を引かなかったら、私は……歩く死体になって、彼女と再会するかもしれない。それだけは絶対に嫌だ。ここで――ケリをつけるんだ。そして、私は引き金を引いた。
カチッ
「…………」
数秒間の沈黙が発生する。鼓膜には確かに引き金を引いた音が届いている。しかし、なぜか――発砲音はしなかった。もしかして……もう死んだ? この目の前に広がる闇が――死なのだろうか。
あ、違う。暗いのは目を瞑っているからか。ゆっくりと、私は目を開けた。
「…………は?」
そこに広がっていたのは――先程と変わらぬ光景。自宅のリビング。
何がどうなっている。私は確かに、自分の頭部に発砲したはず。もう一度、銃口を頭に向けて、引き金を引く。一度目はあれだけ重かった引き金が、今度はいとも容易く引けた。
カチッ
しかし――発砲音が鳴ることはない。カチリと、乾いた機械仕掛けの音が鳴るのみであり、銃弾は発射されなかった。
「ちょ、ちょっと……待ってよ……」
もう一度、更にもう一度、引き金を引く。しかし、カチカチと、まるでBB弾が装填されていないエアガンのような音が鳴るのみ。まさか、弾の方に不具合があるのだろうかと、回転式の弾倉を確認する。そこには確かに、一発の弾丸が装填されていた。
ど、どうなってるの。まさか、そんなまさか……こんな土壇場で……
「こ、故障……?」
何らかの予期せぬ不具合によって、拳銃は故障していた。素人の私にはどこに問題があるのは皆目見当もつかない。徐々に、顔面が青ざめる感触を覚える。こんな可能性は考慮していなかった。だ、だって、仕方ないじゃん。弾は一発しかないんだから、試射をすることなんてできない。ぶっつけ本番でやるしかない
い、いや……今はそんなことはどうでもいい。銃が使えないと分かった以上、何らかの別の手段で命を絶つ必要がある。時間がない。早くしないと、私もあの哀れな動く死体になってしまう。
拳銃を投げ捨て、急いで脱ぎ捨てた衣服の元へと駆け寄る。そこには既に役目を終えたと思われていた一本の包丁が転がっていた。
「……んっ」
その刃を見て、思わず息を呑んでしまう。ただ指を動かすだけの拳銃と比べると、包丁で自らを刺すという行為は……やはり、躊躇ってしまう。切腹をする武士にでもなった気分だ。でも、やるしかない。
腹や首を刺すだけじゃ意味がない。脳が無事な限り、保菌者は死んだらその場でゾンビになる。一切の躊躇なく、こめかみに包丁を刺す必要がある。で、できる……? そんなこと……や、やるしかない。
包丁を両手で持って、狙いを定める。呼吸が乱れて、手が震えているせいで、上手く持てない。そういえば、あと、時間は何分残っているんだろうか。もたもたしている暇はない。一度、置時計で時刻を確認することにした。
『15:16』
「…………は?」
太陽光充電式のデジタル置時計は確かに、午後三時一六分を指している。その時刻を見て、思わず間抜けな一声が漏れてしまった。なぜなら、その時刻は――私が訪れるはずのない、未来の時刻を指しているからだ。
私がゾンビに噛まれたのは三日前の午後三時一五分。これは確かだ。噛まれた直後に時計を確認したから、間違いない。つまり、七二時間の猶予はもう時間切れ。私は既に、ゾンビになっているはず。咄嗟に全身を確認する。腐敗している様子は……ない。いや、そもそも今の私は確かに思考して、言語を発している。ゾンビにはできない芸当だ。
「な、何が……どうなって……」
反射的に、足の甲の傷を確認する。噛み跡は……ある。噛まれたのは間違いない。なら、なぜ私は発症していないのだろうか。い、意味が分からない。もしかして、既に私は死んでいて、ここはあの世なのかと疑ってしまう。
ただ、ここまで来たら……試してみる価値はあるだろう。包丁を置いて、私は時計と睨めっこするように向かい合う。
あと十分。あと十分だけ、様子を見る。それで、もし発症しなかったら……確定だ。気付かないうちに時計自体がズレていたという線もあり得る。危ない賭けになるが、私はその僅かな可能性を信じてみることにした。
*
『15:30』
「……マジか」
十分どころか、一五分過ぎても、発症する様子はない。つまり、私は――元から感染していなかったか、何らかの要因で発症を逃れたということになる。
「い、いやいや……あり得ないでしょ。どうなってるの」
自分でも事態が呑み込めない。
一応、無理矢理に解釈するなら……私が噛まれたゾンビは感染能力を失っていた、という可能性だろうか。長期的に水に浸っていたことにより、ウイルスが全部洗い流されて……いやいや、さすがにそんな都合がいい話はない。そもそも、ウイルスが体内に存在しないなら死体が動くわけがない。
じゃあ、私が噛まれたと思った傷は実はそんな大したものじゃなくて、歯が血管内にまで届かなかった……とか? 一応、これはそこまでとんでも説というわけでもない。実際に、痛みはほぼ感じなかったし、跡は残ってるけど、この三日間の運動にも支障はなかった。ゾンビの歯が少し表皮に食い込んだだけで……厳密には噛まれてなかったのかもしれない。
あとは何が考えられるだろう。仮に感染をしていたと仮定して、この三日間で私が行った特殊な行為といえば……
「……カレー?」
は、はは……まさか、死ぬ寸前にカレーを食べたから、未知のインドパワーによって、ウイルスの抗体ができたとか? それなら、日頃からカレーを食べてるインド人は絶対に感染しないじゃん。ばっかじゃないの。自分で考えたあまりにもアホらしい考察を一蹴する。
と、とにかく……理由は不明だけど、私はゾンビにならなかった。これが現実だ。今はそれしか分からない。
「な、なにそれ……じゃあ、この三日間はなんだったんだよ……」
腰の力が抜けて、その場にへたり込む。
本当に何それ……これまでの努力は一体何だったのか。私は死の幻想に勝手に怯えて、何度も死にかけながらカレーを作ろうと躍起していたってことになる。世界中探しても、こんな間抜けはいないだろう。まさしく、馬鹿の世界チャンピオンだ。
肩に象が乗りかかったような疲労感が襲ってくる。これは生存したことの安堵というよりも、拍子抜けというか……ある意味、落胆の心情に近い。
正直、やっと、やっと――死ねると思った。死体が歩く狂った世界から、明日の生命すら保障されていない生活から、解放される。確かに、死ぬのは怖い。でも、こんな世界で、独りで生き抜くのも死と同等の恐怖が常に付き纏う。その不安が解き放たれたこの三日間はここ数年で一番気楽だったというのは言うまでもない。
やっぱり、私は――悪運が強いらしい。二度の災害を乗り越え、ゾンビにも噛まれた上に感染することなく、拳銃の故障によって自殺も防がれた。つまり、四回も死の危機を乗り越えたということになる。自分で言うのもなんだけど、まさしくゴキブリ並みのしぶとさだ。偶然、幸運、奇跡。どの単語で片付ければいいのか。私の方がゾンビより不死身なんじゃないかって思うほどだ。
「……あぁ、そうかい。じゃあ……もう少し生きてやるよ。クソが」
信じたくはないけど、この時、私は確かに――何らかの超常的な存在の意思を感じてしまった。これが俗に言うところの「神」というやつなのだろう。この世界を腐敗させ、何の救いも与えないくそったれの神はどうやら、まだ私を殺したくないらしい。
そいつに従うようで癪に障るけど、あともう少しだけ……私も、この世界で生きてやろうと思う。私の命はまだ何かの使い道があるはず。正直、このままだと両親に顔向けできない。あとどれだけ時間が残されているのかは分からないけど、どうせ死ぬなら、人生に悔いは残したくない。私が犯した罪はまだ清算されていないのだから。
「……さて、どうしようかな」
これからどうするか。そんなことは考えなくても決まっている。町野宮というコミュニティの存在を知ってしまった以上、私も彼らの力になりたい。何より……紅葉ちゃんの顔をまた見たいというのもある。あんな別れ方をして、実は生きてましたなんて言うのもちょっと恥ずかしいけど。
でも、私が感染者だったいうのは既に事実として伝わっているはず。そうなると、今から戻っても……ゾンビ予備軍としか見られない。三日間、いや念には念を込めて、七日は間を置いた方がいいだろう。これで、私が感染していないということは理解してもらえるはず。
つまり、あと一週間は――暇。また、独りで時間を潰さなくてはならない。この家で過ごす最後の一週間。さて、何をしようか。
「…………」
ちらりと、キッチンの方角を見る。
そこには――使い切れなかったカレーの材料が残されていた。
「……よし、カレー作るか」
今から仕込みを始めれば、夕食時までには昼食よりも更に洗練されたカレーを作ることができるはず。どうせ暇なんだ。この一週間は最高のカレーを追い求めてみよう。
こうして、私の三日間に及んだカレー・オブ・ザ・デッドは終わりを告げた。そして、ようこそ。新たなカレー・オブ・ザ・デッド。この屍が彷徨い歩く世界でも……最期まで、私は好物のカレーを食べることは辞めないだろう。好物を食べて、幸福を味わう。それが、生きるってことだと思うから。
《了》
屍が彷徨い歩く世界でも、最期に私はカレーが食べたい 海凪 @uminagi14
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