対馬さん

白銀 一騎

第1話 対馬さん

 9月初旬の夏の空は朝からどんよりとくもっていた。港の近い片田舎の海岸に一人の少年が、砂浜と道路の境界線にあるコンクリートでできた階段に座っていた。


 年の頃は小学校の高学年位だろうか、少年は水着のままずっと遠くの海の景色をぼんやりとながめていた。


 少し離れた松林から聞こえる蝉の声と、すぐ目の前に広がる海の波の音が相まって、生憎の曇り空の下、夏の海の雰囲気をかもし出している。


 9月に入ったばかりということもあるのだろう、真夏の海岸に人はいなかった。もともと砂浜と呼べる場所も広さは猫の額ほどの広さしか無い海岸なので、一般的な海水浴場と呼べるような場所では無く、泳ぎに来る人も地元の住民しか来ることはない。


 それでもこの海岸には他の海水浴場とは違った風景がある。それは砂浜から50メートルほど沖の対岸に小さな島があることだった。島と言っても直径10メートルほどの小さな孤島で島の中央には小さなやしろとその入口に赤い鳥居があり、地元の住民からは「対馬つしまさん」と呼ばれている。


 少年は対馬さんの赤い鳥居をじっと見つめていた。湿った風が時折吹いて乾いた肌を舐めるように体を流れると熱くなった少年の体を少し清々しい気分にしてくれた。


 その少年の近くに若い男が立っていた。青年は金髪で青い目をしていたが、そんなことよりも真夏なのに上下黒のスーツ姿でいることのほうが目を引いた。

 青年は遠くの対馬さんを見ている少年の近くに座ると話しかけた。


「何を見ているの?」


「対馬さん」


「対馬さん?」


「ほら、あの島の赤い鳥居がある……」


 少年はそう言うと対岸の孤島を指さした。


「ああ、あの島の社を対馬さんていうんだ……」


 少年は青年が驚いた表情をしているのを見て気になった。この海岸に来る人は対馬さんを見に来る人が殆どで、それほど有名な場所なのに知らないでこんな場所にわざわざ来たことが不思議に思えた。


「お兄さんは何をしている人なの?」


「ん? ああ。何も……ただ今日は海を眺めに来たんだよ」


「ふーん、そうなんだ。お兄さんこの辺の人ではないよね。どこの人?、外国の人?」


 少年を見ると瞳を大きくしていた。青年はそんな少年を見ておそらく自分のことに興味が湧いたのだろうと思った。


「うーん。外国といえば外国かな? このあたりは始めて来たよ」


「そうなんだ。旅行者なんだね」


 少年はそう言うと対馬さんの社を指さした。


「あそこにある対馬さんの伝説って知ってる?」


「伝説?」


「うん。あそこの対馬さんに泳いで渡れば願い事が叶うって伝説があるんだよ」


「願い事が?」


「そうだよ。ボクは去年の夏に叶えたい願い事があったから一人で泳いで渡ったんだ」


「へえーー。すごいね。それで何をお願いしたの?」


「うん。ママのおなかの中に赤ちゃんができたんだ。ボクは弟が欲しかったから元気な男の子が生まれてくるようにってお願いしたんだよ」


「そうなんだ。それで? 願いは叶ったの?」


「ほら、あそこ!」


 少年が指さした先に若い夫婦が立っていた。母親と思しき人の腕には赤ちゃんが抱き抱えられているのが見えた。


りくって言うんだ。元気な男の子だよ」


「君の願いが叶ったんだね。良かったね」


「う、うん。願いは叶ったんだけど……」


 少年はそう言うと急に元気をなくしてうつむいたまま黙った。


「どうしたの?」


 青年は少年の隣に座るとうつむいて元気が無い少年の顔を覗き込んだ。


 しばらく沈黙が続いた後に意を決したように少年は口を開いた。


「このあたりの海は海流が激しくて表面は穏やかに見えても海の底はうねっていることが多いんだって、だから地元の人でもこの海岸では泳がないんだ……、ボクは小さい頃から水泳教室に通っていて泳ぎが得意だったから、海を渡って対岸の対馬さんに渡ってお祈りできたんだ」


 少年はそこまで話すと少し肩を落として悲しそうに言った。


「そのことがパパやママにバレちゃって、両親にすごく怒られたんだ」


 少年の話では特にお母さんの方の落胆らくたんが激しかったそうで、泣き崩れている母親にすがりついて何度も何度も謝ったそうだ。その日からだんだんと夫婦仲も悪くなって家族がバラバラになっていったが、先日家族に新しい命が誕生してようやくみんなに笑顔が戻ったようだった。


 少年はそこまで話すとゆっくりと立ち上がった。青年はそんな少年に声をかけた。


「急に立ち上がって、どうしたの?」


「あの対馬さんにもう一度渡ってみたい」


「え? どうして? 危ないよ」


「うん。でも、どうしてもボクは対馬さんに渡らなきゃいけない気がするんだ」


「あ、ちょ……待って……」


 青年の呼びかけを無視して少年は急に走り出した。そのまま海の中に入ると対馬まで泳いで向かった。


 どんよりとした空の下、少年は必死で腕と足を動かして前に前に進んだ。得意のクロールを死にものぐるいで行い海を泳いだ、遠かった鳥居がだんだんと近づいて来たと思った時、対岸に足が着いた。


(やった! 今年もまた対馬さんまで泳いで渡ることができた)


 少年はホッとして海岸を歩いて対馬さんの赤い鳥居まで来た。赤い鳥居をみて少年は驚いた。遠くの対岸から見ると鮮やかな赤い色をしていたのに、近くで見るとフジツボがびっしりと付いていてどす黒いくグロテスクに見えた。ゆっくりと鳥居をくぐって緩やかな階段の先の社に行こうとした時、フナムシの大群が少年のすぐ横の岩肌に群れていてびっくりして引き換えした。


(近くで見るとこんなにも気持ち悪いものだったのか)


 少年は初めて見る光景に言葉が出なかった。そう思った時、目の前の景色がグワンと揺らいだように見えた。何故か去年もここに来たことがあるはずなのに、初めて見る景色ばかりだったことに驚きが隠せない。


(どうしてだろう? ここに来るのは二度目のはずなのに?)


 そう思った時、少年は辺りを見回した。砂浜に打ち寄せる波や対馬から見る対岸の光景、近くにある岩のゴツゴツした感じなど、どこもかしこも初めて見る景色が広がっていた。


(もしかして……、ボクはここに来るのは初めてなのかもしれない?)


 少年がそう思った時、去年泣き崩れている母親の光景が頭に浮かんだ。


『ごめんねママ! ごめんねママ!』


 うつ伏せに倒れて泣き崩れている母親の背中にすがりついて必死で謝っている自分の視線の先に青白い顔で横になっている人がいた。その人の顔をよく見ると自分だった。自分が横になっていたことを思い出した。


(そうだ……ボ、ボクは……死んだんだ……)


 ママは死んだボクに覆いかぶさるようにして、叫び声をあげながら泣いていた。


 少年は誰も居ない対馬さんの砂浜で立ち尽くした。


「やっと思い出したかい?」


 少年が振り返ると、スーツ姿の青年が大きな岩の上でこちらを見ながら座っていた。


「ボクは去年この対馬さんを目指して泳いで……そして流されて溺れた……」


 少年の脳裏には必死でもがき苦しんでいる自分の姿が浮かんだ。


「もう苦しむことは無いんだよ」


 青年はそう言うと立ち上がって右手を差し出すと、さあ行こうか? と言った。


 少年はその青白い手を掴むと体が軽くなり、段々と宙に浮いていくのがわかった。先程までどんよりとした空に一筋の光が差し込んだ。光は少年と青年を照らし、神秘的な情景を醸し出した。


 青年と少年の二人は陽の光に吸い寄せられるように、徐々に空に登っていった。少年が振り返ると両親と幼い弟が対岸の砂浜にいるのが見えた。


「パパとママはボクのこと忘れちゃうのかな?」


 少年が両親を見ながらポツリと言った。


「忘れられるのは嫌かい?」


「ううん。ボクのことを思い出して悲しい気持ちになるんだったら、ボクのことなんか忘れてもいいよ」


 少年は寂しそうにそう言った。青年はそんな少年に優しい口調で話した。


「君を忘れることはできないだろう。夏が来れば否応なしに君のことを思い出して悲しい気持ちにもなるだろう。それはたとえ長い時間が過ぎ去っても決して変わること無く、両親にとって忘れられない思い出になってしまう。でも、君を失ったから一生、全てが不幸でなければいけないなんて事はない。死ぬことは負けでは無いし、無になることでも無い。大丈夫、君の家族は必ずこれからも幸せに暮らしていくさ」


 少年はその言葉を聞いてホッとして笑った。


「うん。そうだね。ありがとう」


 少年はそう言うと浜辺で立っている家族を見ながら大きく手を降った。


「バイバイ! パパ! ママ! 陸! ボクはいつまでも見守っているからね。心配しないでね!!」


 少年はそう言いながら空に登っていった。


 ◇


 海岸に若い夫婦の姿があった。母親は生まれたばかりの赤ちゃんを抱っこしていた。夫婦は去年この海岸で最愛の息子を亡くしていた。それ以来この海岸へは近づくことはなかったが、今日はある報告がしたくて、この海岸に来た。赤ちゃんの名前は陸と名付けた。夫婦ともにこの漁村の生まれで、海が好きで生まれた子供には海の一文字を入れるのが夢だったが、海の文字を見るたびに亡くなった息子を思い出してしまうため、次男には陸と海とは正反対の名前を付けた。


 誰も居ない海岸を夫婦はただじっと無言で海を眺めていた。


海斗かいと。弟の陸よ」


 母親は赤ん坊を見ながらそういった。


「海斗。今日はお前に弟を見せたくてここに来たんだよ」


 父親は優しくそう言った。二人はそう言うとただ黙って海を眺めた。


 その時、対馬さんに一筋の光が差した。曇り空に一筋の光が差していて神秘的な光景に見えた。


「あ、あれは? なに?」


 母親がそう言って指を指した。


「まるで、海斗が空に帰っているような……」


「あっ! あそこ!」


「ん? ど、どうしたんだ?」


 母親は空に指を指して夫に叫んだ。


「あそこに海斗がいたように見えた。海斗がこっちを見て手を振っていたように見えたわ!」


 そう言うと母親は片手を天高く上げて降り出した。父親も両手を大きく上げて振った。


「俺たちは大丈夫だから! いつまでも見守ってくれよ!」


「あなたのことは絶対に忘れないから! 待っててね!」 


 夫婦はそう言いながらいつまでも夏の空に向かって手を振った。

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