小説勉強ノート

残機弐号

芥川龍之介「羅生門」を読む

【引用】

どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。選んでいれば、築土ついじの下か、道ばたの土の上で、饑死うえじにをするばかりである。そうして、この門の上へ持ってきて、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊ていかいした揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないということを肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方ない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。


【コメント】

優柔不断な現代人の心理描写としては的確だけど、平安時代の人がこんな複雑な考え方をするだろうか? 昔の人はもう少し倫理観が希薄だと思う。作者の自意識過剰をそのまま昔の人の心理に押しつけてしまっている感じもする。



【引用】

下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗衫かざみに重ねた、紺のあおの肩を高くして門のまわりを見回した。雨風のうれえのない、人目にかかるおそれのない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上がる、幅の広い、これも丹を塗った梯子が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄ひじりづかの太刀が鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。


【コメント】

この、「人がいたにしても、どうせ死人ばかりである」というところが面白い。現代人の感覚からすると、「死体がたくさんあるから、気持ち悪くてとても楼の上では寝られない」という風になると思う。こういう描写をもっと増やしたら面白かったのだけど。



【引用】

下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰にきびを気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上がって、この老婆を捕えたときの勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時の男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。


【コメント】

たぶん国語のテストだと「なぜ下人はニキビを気にするのか」みたいな問題が出るんじゃないか。いかにも国語の先生が好みそうな描写だけど、正直、今の時代読むとちょっと陳腐な感じがする。ようするにニキビは自意識の象徴なのだろう。昔の純文学の多くは自意識を問題にしている。自意識以外になんか興味あるものないんですか? と言いたくなるくらいに。



【全体感想】

久しぶりに読んだ。描写がとても丁寧で密度があるのに村上春樹並に読みやすい文章で、やっぱりすごいと思った。


でも、小説としてはかなり古臭い印象もある。まあ、実際古いんだけど(大正4年の作品だ)。


自分の自意識を他人に投影するだけでは、作者が自分語りしているだけのように読めてしまう。楼の上で死体の髪の毛を抜いているおばあさんも、下人が優柔不断を捨てるためのただの小道具のようになってしまってるし。ようするに、「他者」がちゃんと描けてないということだ。だから、作品としてはこれ以上無いくらいきれいにまとまっているのに、なんだか物足りない印象が残る。

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小説勉強ノート 残機弐号 @odmy

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