(その5)

次の公休日に、ふたりはそろって心学の講座に出た。

石川島に人足寄場を作った老中の松平定信の発案で、月に三日ある公休日に、罪人たちを改心させて真人間にしようと心学の話を聞かせていた。

だが、公休日に役所の奥座敷までわざわざ心学の話を聞きに来る人足は、半分もいなかった。

役所の心証をよくした方がいい、なに聞きたくなかったら寝てりゃあいいんだよ、と長次がしきりに誘うので、新吉は講座に出ることにした。

もっともこの日は、いつもの心学の教師の代わりに、貧相な坊主が法話を長々とした。

・・・釈迦の弟子の提婆達多は増上慢になり、釈迦に破門された。

それを逆恨みした提婆達多は、酒に酔わせた象に襲わせたりあれこれ画策して釈迦を殺そうとしたが、ことごとく失敗した。

最後には罪を悔いて祇園精舎に仏陀をたずねて謝罪しようとしたところ、門の蓮池近くの地面が裂けて噴き出た炎に包まれた提婆達多は五百人の従者とともに無間地獄に落ちた。

・・・坊主は、ぼそぼそとそんな話をした。

見ると傍らの長次だけでなく、人足のほとんどが、坊主の法話を子守歌でも聞くように舟を漕いでいた。

ここで、坊主が声を張りあげた。

「ただし、提婆達多はそれを恨まずに、『釈迦に帰依する』と三度唱えて無間地獄に落ちた。これは大手柄じゃ。提婆達多は長い間地獄をのたうちまわったが、ついには釈迦は弟子の目連を地獄につかわして救い上げ、再び弟子のひとりに加えられた。じぶんを殺そうとまでした破戒僧をじゃ。これが、釈迦の慈悲でなくてなんであろう。罪ある者もこころから南無釈迦牟尼と唱えれば、たとい地獄に落ちようとも、釈迦は救ってくださる。ここのところをよくよく考えなされ」

そんな法話をしてから、釈迦の話をもっと聞きたければ深川の明法寺をたずねるようにといって、坊主は脇に退いた。

「いい話を聞いた。悪人でも極楽浄土で救われる。これで、われわれも安心して悪事が働けるというものだ」

いくら何でも、それはちと虫が良すぎる、じぶんに都合よく考えすぎる、と新吉は思ったが、何も答えずに黙り込んた。

長次は、眠い目をこすりながら、大きなあくびをした。

片山という背の高い木っ端役人が、お上の慈悲で寄場で働くことに感謝し、ここを修行の場ととらえ、こころの内の悪玉に善玉が打ち勝つように日々たゆまず精進せよ、などと訓示を垂れはじめたので、しらけた人足たちはぞろぞろと座敷を出た。

出口に立った明法寺の坊主が、座敷を出る人足ひとりひとりに向きあって手を合わせておじぎをした。

帳面に何やら書きつけている篠塚同心と目が合ったので、

「明法寺の坊主が人足ひとりひとりに手を合わせていましたが、あれは何ですか」

とたずねると、

「ひとはだれしも仏性をもって生まれてくる。唯然坊は、ひとはそれだけで尊いというので拝んでいるようだな」

篠塚同心がしかつめらしい顔で答えた。

「そいつは悪い冗談です。だれしも仏性をもって生まれてくるのなら、この世に悪人などおりません。人足寄場などいりませんぜ」

新吉にしてはめずらしく軽口を叩くと、

「信心のことはどうにもわからん。まちがった考えかもしれん。・・・だがな、そのように思ってくれる人間がこの世にひとりでもおれば、それはそれでありがたいのではないのかな」

篠塚同心は、口元に菩薩のような微笑みを浮かべた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る