Ⅻ
危うく叫ばれるところだった——。
運悪く執務室へ続く廊下の曲がり角で鉢合わせた修道女の心臓をひと突きで刺し貫きながら、エリクは胸を撫で下ろした。ここに居ることを、リアムに知られるわけにはいかない。刺されたばかりの修道女は、何が起きたのか解らず、妙に浮かれた表情のまま床に崩れ落ちた。よく見ると、女はシャマジーク人のようだ。シャマジーク人の修道女など見たことがないエリクは、きっと刺激を求めたリアムが、シャマジーク人の娼婦に修道女の格好をさせて楽しんだのだろうと思った。剣に付いた血を拭いながら廊下を進み、執務室の扉の前で足を止める。この瞬間のために、半年間の逃亡生活に耐えてきたのだ。その間、立ちはだかる者は全て殺した。老若男女関係なく、エリクは数えきれない命を奪ってきた。この扉の先に居る、たったひとりを殺す為に——。
鍵は掛かっていない。扉を開けると、以前とほとんど変わらない執務室の光景があった。すぐに、執務机に向かう男に目がいく。短く刈られた金色の髪、よく手入れされた髭をたくわえた、身なりのいい若者——あまりの変わりように驚きを禁じ得ないが、間違いなくリアムだ。人の気配に気付き、顔を上げたリアムは、戸口に立つ鉄仮面の男の姿に驚いたようだが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「いつか来るとは思っていたよ」
リアムが立ち上がる。武器に手を伸ばさないかと身構えるが、その様子はない。
「……その仮面を取ってくれ」
「何故?」
「ちゃんと顔を見て話したいんだよ——兄貴」
執務室に沈黙が訪れる。やがてエリクは仮面を取り、その下の素顔を露わにした。
「……いつ気付いた?」
「母さんが殺されてからさ。貯蔵庫の件といい、偶然にしては出来すぎてたからな。あ、言っとくけど、恨んでねえよ。母さんもろくでもない女だったからな。ばちが当たったんだ」
リアムがため息混じりに吐き出す。再び、気まずい沈黙が訪れた。
「……兄貴」リアムが沈黙を破る。
「兄貴には辛い思いをさせたと思ってる。不公平だよな。真っ当に生きてたのは兄貴の方なのに、俺に全部持ってかれたんだから」
沈痛な面持ちで語るリアムを睨みながら、エリクは剣を持つ手に力を込めた。
「俺、今は真面目にやってるんだ。そうする中で、親父や、兄貴が負っていた責任の重さを味わった。だから今は、兄貴の痛みがわかる。兄貴の怒りが……理解できる……」
リアムの目から、涙が溢れる。一粒、また一粒。やがて、堰を切ったように、リアムは泣き出した。
「許してくれ……兄貴の苦しみを理解出来なかった俺を……許してくれ……」
跪き、怯える子供のように身体を揺らしながら、リアムは詫び続ける。
「ごめんよぉ……ごめんよぉ……」
エリクが剣を持つ手を振り上げた。それに気付いたリアムは目を閉じ、両腕を広げて剣が振り下ろされるのを待った。だが、なにも起こらない。目を開けると、エリクの手から剣が落ちるのが見えた。エリクが弟の前で膝をつく。その瞳が怒りに燃えていないのを認め、リアムは安堵の表情を浮かべたが、次の瞬間、エリクはリアムの首に手をかけ、あらん限りの力で締め上げた。
リアムは知らない。彼の知る、真面目で善良な兄エリクは、もはや存在していない。残されたのは、復讐に駆り立てられた虚な器、冷たい鉄の仮面だけなのだ。首を絞める手は緩まらない。リアムの瞳から光が消えるまで、エリクは顔色ひとつ変えなかった。
屋敷が燃えている。炎がその舌を戸に、柱に這わせ、灰に変えてゆく。
『烙印』がエリクの魂を自身の糧へと変えるのを味わいながら、オーガストはランヴィッツ邸が燃え落ちるのを、観劇する子供のように笑いながら眺めていた。
「なんということを!」
背後から聞こえる悲痛な叫びに興をそがれ、オーガストは、声の主に向き直りながら、わざとらしいため息をつく。
「あーあ。白けるじゃあないか」
視線の先のエマニュエルを挑発するように、肩を落としてみせた。
「見てごらんよ。八代続いた一族の歴史ある住処が、無に帰していく様を!」
エマニュエルが歯をくいしばる。
「エリクさまは善良な方でした。リアムさまは己を省みて改心しました。かれらの存在は、この悪にまみれた世界にまだ善きものが……希望があるという、何よりの証だったのに——」
「それを滅茶苦茶に踏み躙ってやるのは、実に愉快だったよ」
エマニュエルの言葉を、オーガストは嗜虐的な笑みを浮かべながら遮った。
「エリクのやつ、屋敷に火を付けた後、首を吊っていたよ。縄が食い込んで、顔が赤紫になっていて……まるで葡萄のようだった。傑作だろう? ワインで財を成した一族の最後のひとりが、葡萄みたいな姿になって死んだんだ」
趣味の悪い冗談で笑うオーガストを見るうち、エマニュエルは堪えきれずに泣き出した。
「何故? あなたもかつては、この世の善きものを……美しいものを愛していたではないですか! どうしてこんな……邪悪な存在に墜ちてしまったのです?」
オーガストの笑い声が止む。その視線は、崩壊して炎に飲まれる屋敷の方に向けられているが、なにも捉えていないのは明らかだ。
「君には分かるまい」
オーガストが呟く。
「何故です? 何故なんですか……オーガスト——!」
幾星霜ぶりに、エマニュエルは兄を名前で呼んだが、それがかえってまずかったのか、オーガストは怒りに身体を震わせながら歩き出した。「君には分かるまいよ……」と吐き捨てて。
エマニュエルはひとり立ち尽くし、ランヴィッツ邸が灰と化すのを、ただ眺めることしかできなかった。
こよなき悲しみ 第二話 生得権 かねむ @kanem
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