第二話 診察

 車で連れられた大学病院。母と共にいつもの部屋に入ると、そこには白い壁に机とデスクトップパソコン。いつもの先生に促され、依里愛は椅子に座る。部屋の中には、依里愛の椅子全体を映すようにして、姿見が設置されていた。

依里愛は、膝に手を置いて、ちらと姿見に目を移した。鏡の向こう側で、藍理が、つまりは依里愛の鏡像が、その目に手を振って応える。

「お久しぶりです、阿波依里愛さん、阿波藍理さん。何か変わったことはありますか?」

「久しぶりって、私たち一か月ごとにここに通ってるじゃないですか! それにしても、うーん、変わったこと、ですか……この部屋幽霊いません?」

 「テキトーなこと言わないで」と医師に注意され、うーんと顎に手を当てる依里愛。しかし何も言うことは無いらしく「まあ、特に」と手を振った。

「藍理はどう? なんかあった?」

 医師から視線を外して姿見の方へ椅子を回した依里愛がそう聞く。

「私も特にないです」

 瓜二つの少女による、鏡越しのコミュニケーション。もう十数年も共に過ごした仲であるので、とても円滑。それは、片方が鏡の上にしか存在できない、およそ存在とも言い切れないような存在であるとは思えないほどに。

「無い、ということでよろしい? 藍理さんも」

 医師も、藍理という鏡像の映っている鏡に向けて問いかける。すると藍理はこちらを向いて、「はい」と答えた。




 「鏡に自分ではない自分が映る」と聞かされた時、全ての人は「それはただの妄想だろう」と切り捨てるはずだ。「有り得ない」と。きっとその鏡像は客観的には存在していないものであって、本人の宿している歪んだ世界観の中でしか存在しえないものなのだと。しかし、依里愛の鏡像に過ぎないはずの藍理は、意思をもち、話す。依里愛とは違う動作をする。依里愛と意見が食い違うことすら、ある。

 医師でさえも、完全に独立した人格が依里愛を映す鏡の上でのみ存在しているということを、客観的にも認めざるを得なかった。まるで、画面上の一つのアバターのように。依里愛の鏡像、藍理は振る舞う。

 依里愛の持っている、黒いロングヘアーも、通っている高校の制服も、左目の下のほくろも、全て藍理にもある。

 生き写しの二人。

 いや、文字通り鏡映しだと言うべきか。

 多少の性格の違いこそあるが、逆に言えば違いはそれぐらいであって、黙ってしまえばどちらも同じ姿に見える。最近は藍理が依里愛の動作に合わせて動く練習を重ねているらしいので、少女とその鏡像の違和感はさらに日に日に薄れていっている。

「最近は、二人で動きを合わせるのが上手になったので、鏡を見ながら身だしなみを整えることまでできるようになったんです! 今日も私たちだけで頑張りました」

「そうですか」と返す医師に、藍理がうんうんと頷く。

「昔は全部私がやってましたが、最近は二人で協力していろいろできるようになっているので、そこまで大変ではありません」と、依里愛と藍理の母親が総括した。


 十数年前のことだ。彼女らを取り巻く状況が判明したとき、担当になった医師が委員会に彼女らの事を報告すると、早急に「極秘」とラベリングされた文書が届いた。そこには、とある病名が記されていた。

 ——自立鏡像症候群。

 自らを鏡に映した鏡像が独立した存在として振る舞うようになる病気であり、患者数は極めて少ない。全ての症例において、生まれつき発症している。そして原因は不明。この病気によって現れる自立した鏡像は、「鏡人(きょうじん)」と呼ばれる。そして、鏡人を生じさせる性質を持って生まれてきた人の事を、「人鏡人(じんきょうじん)」と呼ぶ。

 その性質から、自立鏡像症候群にかかった者、つまり人鏡人の多くは、精神的な不調をきたす。また、軽微であるとはいえ、自分の体を自分で直接見ることができないことによる不都合もある。そのため、見た目を整えるときのように鏡を必要とする場面においては、理解のある保護者や介護者がいたほうがよい。

 まあ、でも、この子たちは大丈夫か。

 診察中なのに鏡越しにハイタッチして遊んでいる彼女たちを見ると、大した不調もなく過ごせているようだった。

 今日の診察は、もう終わりでいいか。


 診察の最後にはいつも、一つの注意事項を改めて確認することにしている。

「依里愛さん、ちゃんと、病気の事は秘密にできていますか?」

 人鏡人という現象は、世間に公表されていない。これは、人鏡人の特殊性によって社会活動が行えなくなることを防ぐ措置だ。現代における反応は、人鏡人だとバレてしまったが最後、祟りの前兆だとみなされて村民に殺されていたという近代までに比べたらまだマシだとはいえ、それでも露見すればただでは済まない。それは、彼女自身が身をもって知っていることだ。

人鏡人であることが知られないために、医師の守秘義務は当然として、人鏡人自身とその関係者にも努力が求められる。だから、人鏡人は常に人前で鏡に映らないよう注意を払っている。どうしても鏡の前を通らないといけない場合には、できるだけ周囲に誰もいない時に通るか、阿波たちのように鏡人と練習を重ねて、まるで普通に鏡に映っているだけに見えるように動作を揃えるスキルを磨く必要がある。

 とにかく、人鏡人は、他の人に知られてはいけないのだ。

 しかし、大変だろう、とも思う。

 人類全体の共通認識である、鏡には鏡の前にあるものが映る、という常識から弾かれている存在。彼女とその他大勢の間には、表面上は同じ人間なのに、大きな亀裂がある。さらに、そのことを知っているのは彼女自身だけだ。常人には計り知れない孤独感を抱え続けるであろうことは、想像に難くない。

 だから、あの時の事件はもう、しょうがなかったのだろう。

 阿波依里愛は一度、小学生の頃に、人鏡人であることを周囲に伝えてしまったことがある。

その後、然るべき「処置」が行われ、依里愛は引っ越しを余儀なくされた。大学病院へ車ですぐ行ける立地の場所が選ばれ、中学からはこちらで過ごしている。

「毎回それ聞きますね。……はい、大丈夫です」

「この病気の事を知っているのは、今部屋にいる私たちと、ごく一部の医師だけですので。くれぐれも、一般人にばれないように。……依里愛さんが小学生だったころと同じ事態にならないように」

「はーい。わかってまーす」

 朗らかに答える依里愛。藍理も、「当然」と頷く。

しかし、依里愛が、「あ、でも、」と話し出した。

「なんですか?」

「もし、私と同じ人鏡人と出会えたら……その人にだけは、打ち明けてもいいんじゃないですか? 同類だし」

ちょっとふざけた調子で言ってみせた依里愛に、ははは、と藍理が無邪気に笑う。すみません、と軽く頭を下げる母親。医師は思わずため息をこぼしてしまった。

「はあ、まあ、そのときはそうなんでしょうが……ありえないですね。患者の数の少なさからして。私も、阿波さん以外の患者さんのことは知りませんし」

 ですよねえ、と依里愛は頭をかいた。

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人鏡人 さしもぐさ。 @sashimo

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