第一話 ちこく!ちこく!ちこく!
20XY年 某月某日。
「おーい」
「…」
「おーーい」
「……」
「おーーーい」
「………」
「おーーーーい」
「…………」
「——いい加減起きろー!!」
「はあいっっ!?」
横からの怒声にベッドから飛び上がり、混乱したまま時計を見た。八時。
「やっば!!」
急いで起きて、部屋を出た。残されたぐちゃぐちゃになったベッドの真横には、大きな姿見がベッド全体を移すように設置してあった。
リビングに降りると、「やっと起きたの」と母に言われた。椅子に座って、テーブルに両肘をついてマグカップを傾けている。父はいなかったので、もう仕事に出たらしい。
「起こしてくれればよかったのに、お母さん」
「私は私で忙しいから、そんな余裕無かったのよ。代わりに藍理(あいり)が起こしてくれたでしょ?」
優雅にホットミルク飲みながら何が時間無いだと小一時間問い詰めたくなる衝動が沸き上がったがこらえた。何故ならそんな時間は無いから。小一時間ですら惜しい、というか小一時間って具体的に何分なんだ。範囲は?
「ごちそうさまー!」
出されたトーストを音速で食べてからすぐに家を出ようとすると、「え」と母に止められた。
「もう行くの?」
「当たり前でしょ、遅刻に片足、いや両足を踏み入れてるんだから……」
乱雑に制服へ着替えながら、部屋の時計に目をやる。もう八時十五分。これでは時間内に登校なんて絶対に無理。これがもし遅刻でなく足湯であれば心の底から楽しめてしまうほどに、今の状況は遅刻へ両足を突っ込んでいる。
「それじゃあ行くね」と、靴のかかとをふんづけたまま玄関を出ようとすると、後ろから「待ってー」と声が伸びてきた。振り返ると、母が玄関までついてきていた。
「行くもなにも、私が車出さないと行けないじゃない」
「いや、いつも徒歩で行ってるんだけど、学校。春からずっと……」
何言ってるですかと言い返すと、「学校?」と母が首を傾げた。そして合点して、ふふふと笑い出す。
「依里愛(いりあ)、まだ寝ぼけてるでしょ。今日は学校に行く前に病院へ行く日よ。だからまだ時間あるわよ」
「……」
学校に遅刻する危機が去り、遅刻の足湯から両足が上がった依里愛は、玄関に至る廊下の壁の、姿見の前に立っていた。鏡を見ながら、乱れた身だしなみを整える。
「……藍理」
「何ですか」
「どうして今日は学校の前に病院に行く日だって言ってくれなかったの? 勘違いして損したんだけど……」
依里愛の訴え。しかし藍理は笑っているだけだった。
「そもそも依里愛が自分のスケジュールを把握してないのがいけないんだよ」
「う、来たな正論」
依里愛は正論が嫌いだ。何故なら正論は正しいから。言い返せやしないから。
「言い訳の余地を残しておくのが淑女のマナーなんだよ?」と嘆いてみせる依里愛を、藍理は「淑女は起きない高校生の目覚ましなんてしないね」と切り捨てた。
「いやするでしょ! 淑女でもそれぐらい……するのかなあ? ていうか、そもそも淑女って何なんだろう。称号なのかな? なんかの大会で優勝したらもらえたりする?」
「知らんわ」
藍理は寝起きの頭でわけのわからないことを口走り始めた依里愛をスルーし、「そもそもそも!」と叫んだ。
「目覚まし時計が鳴るたびに寝ながら止めるのも良くない! なんなのその謎技術は。毎朝横で見てて思うけど、よくもまあ器用に止めるよね」
「そんなこと言われても」
依里愛にはどんなタイプの目覚まし時計でも寝ながら止められるという天性の才能があるのだが、彼女自身にその自覚は無い。何故なら寝ながら止めているからだ。
「藍理が叫んで起こしてくれるからいいじゃん。最近、声量上がったよね」
「誰のせいだと思って……」
一歩左にずれて、腕を組んで依里愛をにらむ藍理。困ってしまった依里愛は、「まあまあ、明日こそ頑張るから」と苦笑するしかなかった。
「だから、まあ、早く戻ってきてよ。そんなとこで腕組みされたら、私の姿が鏡でわからないじゃん」
「はいはい……」
藍理はしぶしぶ元の位置に戻った。
依里愛が前髪を指で直す。
藍理も、前髪を指で直す。
依里愛が制服のリボンの形を整える。
藍理も、制服のリボンの形を整える。
——しかし、姿見の前に立っているのは、依里愛一人だけだった。
鏡の前に立った時、鏡には自分自身が映る。鏡の前で制服を整えれば、鏡には「制服を整えている自分自身」が映る。
これは、いたって普通の事だ。
しかし、普通には必ず「例外」がある。
それは、「鏡には鏡の前にあるものがそのまま映る」という、常識よりも常識、当たり前すぎて誰もわざわざ意識していない事象においても同じだ。
それが、二人の少女、依里愛と藍理だった。
いや、正確に言うならば、「二人の少女」ではない。
「依里愛」という一人の少女と、「藍理」という一つの鏡像だ。
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