人鏡人

さしもぐさ。

プロローグ おねえちゃん

20(X-1)Y年 某月某日。


「はあっ、はあっ、」

 夕焼けが寿命を迎え、夜が目を覚ます頃合いの空の下、左手を右手でかばうようにしながら走る少女。リズムを忘れ切った呼吸が、吐くことも吸うこともおぼつかなくなり、ただの振動と化している。ちらと、後ろを見る。まだ、ここまでは来ていない、あいつは。少女の走る方向には、ある建物があった。その真横の、舗装がされていない土の部分に駆け寄り、しゃがむ。そして、土に右手を突き刺すようにして、決死に穴を掘っていく。昼間の雨のおかげで土は柔らかく、手でも掘りやすくはなっていた。しかし、落ち着いてなんていられない。今こうして息が上がって体が震えているのだって、湧き上がる恐怖を一生懸命抑え込んだ結果だ。とにかく、時間がない。しかし、左手は使わない——使えない。小指と親指で、一生懸命、取りこぼさないように、あるものを持っておくという仕事が左手にはあったからだ。

 あの男に切り落とされた、私の三本の指。

 薬指、中指、人差し指。小指と親指の間にある、五指の中央を占める指たち。少女の左手は、それを欠いていた。どくどくと、行き先を無くした血液が三つの傷口からあふれていく。走ってきた道には、服で抑えてもかばいきれなかった左手から垂れた血液が、途切れ途切れに線を作っていた。少女を切った男が再び動き出せば、血を辿ってこちらにくるのは確実だった。左手に走る激痛が、持っている指を離せと迫るのを、必死に振り払う。

 早く、早く、早く、早く!

 少女は体重を右手にかけ、ひたすらに穴を掘った。爪が剥がれそうになることも気にしない、気になどできない。そうしてできた穴に、縦に重ねるようにして、指たちを収めた。少女の心中にあるのは、一つの祈りだけだ。

 ——どうか、あなただけでも。

 そして、少女が場を離れようと立ち上がり、振り返った時。

 目が合った。血走った目、血気盛んな興奮した様子で、血だらけのナイフを持って、

「じゃあな」

 腹部に急激な熱が走った、それだけしか感じ取れなかった。何が起こったのかと熱の元を見ると、赤く染まった傷口が、服を染みこみ足にまで至るほどに血を吐き出していた。ひゅ、と、息が止まった。

 溢れる血液、血の気が引いていく、意識も、

(果てる音)


 うつぶせに倒れこんだ少女の周りを、赤黒い液体が覆う。すっかり夜のものになった暗い空には、星が綺麗だ。灯りに照らされた血液がこの景色を反射して、風情のある色を浮かべている。指を浸してみると、もう冷たくなっていた。男は、鮮血の色に染まったジャケットを脱ぎ、両手で持って掲げ、眺めた。元々赤色の服だったこのジャケットは、度重なる殺人の中で何度も返り血を浴びて、幾重にも赤の重なった綺麗な色をまとっていた。その美しさを味わいつつも、男はため息をこぼした。

女子を手にかけたのは初めてだったが、なんかこう、エンタメ性がない。どんな人間でも刃物を持った男に追い詰められれば最後にかなりの抵抗を示すもんで、これは結構侮れない。鍛えている男をターゲットにしたときは、思わずこっちが死んじまうんじゃねえかと思ったぐらいだ。

だが、そんなスリルもまた、人殺しの奥深さの一つだ。

なのに、こいつは。

最初に襲って指を切り落とした後はいい反撃をしてきたのに、その後は死ぬまでずっと逃げてやがった。……つまらん。

というか、殺す直前まで何かをしていたような。

まあいっか。

 今回は珍しく依頼を受けて殺したわけだが、こんな活気のない少女が目標だったのでちょっとげんなりしている。あーもう、こんな感傷的になるなよ、俺らしくない!


「とりあえず、今日はもうお終いか。……あー、つまんねえ」

夜空の月が街を見下ろしだした頃、男は、校舎を後にした。




 ねえ。

 ねえねえ。

 ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ。

 ねえ!

 おねえちゃん。

 ゆきおねえちゃん?

 へんじしてよ。……へんじ。いつもの、どこにいてもわかるぐらいおおきなこえは、どこにいっちゃったの?

 どうして、そんな、まっかで。

 どうして、そんな、しずかなの。

 どうして、そんな、わたし、おいていって、

……


 ころす

ころす。ころしてやる。

 おねえちゃんをこんなにしたやつを、いつか、さがしだして……ころす。


 殺してやる。

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