第2話 せしもんとミカさん
「せしもん、この後ヒマ?」
書店でのバイト終わりに、瀬下紀穂は同じバイト仲間の藤原美雅に呼び止められた。
「あ、美雅さんお疲れ様。どうだろ、どのくらいかかるかにもよる…」
あまり乗り気で無いのをオブラートに包みながら紀穂が恐る恐る答えると、美雅は「あは」と声だけで笑う。
「彼氏と会う予定まで一時間くらいあるからさ、ヒマだったら一緒にどっか買い物とか、スタバとか行きたいなーって」
「ああ、そのくらいなら、うん。平気」
紀穂はほんのり、美雅が苦手である。眼が笑っていなかったり声色が固かったり、表情が作り物のように感じられてしまい、反応に困るからだ。それに、純度百パーセントの女の子、という感じの美雅は、紀穂の思い出したくない記憶を掘り起こす。
「せしもん全然化粧しないよねー。うちの本屋すっぴんオーケーだけど、してないのせしもんくらいじゃない?」
近くのドラッグストアの化粧品コーナーを物色しながら美雅が言う。
美雅は紀穂の鎖骨くらいまでしか背がないので、上目遣いに一歩後退りしそうになる。上目遣いはあざとく見えて可愛い、という人たちがいるが、紀穂にとっては何かを要求されているようで怖く感じる視線だ。
「化粧したいなーとか思わないの?」
「全然…むしろしたくない」
美雅と視線を合わせるために下げた目を、そのまま一番下の棚まで逃す。
「へぇー変わってるねー」
紀穂にはたいして興味もなさそうに、美雅はサンプルの口紅の色味を手の甲で試してみては次に手を伸ばす。
瀬下さんって変わってるよね。その言葉は言われ慣れていた。慣れているけれど、好きには慣れない言葉だ。
ーーー私にとっては、これが普通なのに。
化粧に興味がないことも、同性の恋人がいることも、高校を卒業していないことも、一度今までの人生を全て捨てたことも、紀穂にとっては意外性のない事実だ。疑問に思う点がないとは言えないが、紛れもなく、これが彼女の現実である。
高二の冬、死ぬつもりでいた。いつも学校へ行く時間、誰も起きて来ない家に何も告げず、学校とは反対の電車に乗った。通勤ラッシュの車内で、誰も紀穂のことを知らなかった。ICカードにチャージしてあった金額の限界まで乗り継ぐと、隣の県に入っていた。
駅のトイレで、近所の人に見られても何も聞かれないようにと着ていた制服を脱いで、捨てた。通学に使っていたリュックの中身は最初から着替えを入れるために学校のものは出していたが、学生手帳が入っているのを見つけて、それも一緒に捨てた。
なんの感情もなくーー清々しさすら感じなかった。
自分の内側が凍りついたような、その中にある何かが沸き立つような。冷めた興奮とも言える何かだけが、その時の紀穂の全てだった。
「せしもんの彼氏は化粧とかしてなくても全然オーケーな人なの?」
美雅の声で、紀穂は意識を過去から現在へ引きずり戻した。
美雅は、紀穂の恋人が女性だということを知らない。いや、その事実を知っている人は、ほとんどいない。
「え、ああ、うん。化粧とかどうでもいい人」
「へぇ〜それはそれで気楽そうだなぁ」
いつのまにかアイシャドウを見始めていた美雅は、やはり紀穂には興味がなさそうだ。いつもこんな調子なのに、月に数回こうして暇潰しに付き合わせるのは何故なのだろう。
ただの、退屈しのぎだろうか。
紀穂がぼんやりしていると、ジーンズの尻ポケットに入れたスマートフォンが軽快な音色で騒ぎながら震えた。バイト先かと慌てて取り出すと、画面には「タカちゃん」と表示されていた。
「ごめん、電話でるね」
慌てて美雅から少し離れながら受話ボタンを押す。
「もしもし、タカちゃん?どしたの?」
『あ、おつかれー。今あたし仕事終わったんだけど、キホどこいる?早く終わったからこの間言ってた映画、行けそうだけど』
「え、マジ?行く行く、今バイト先の近くいる」
『あー、じゃあそっちの方が近いわ。現地集合でいい?先着いた方がチケット買う形で』
「了解〜」
『んじゃ、そーゆーことで。着いたら連絡しまーす』
電話を切ると、美雅がこっちを見ていた。
「彼氏?」
「ん。タカちゃん仕事早く終わったらしくて映画行くことになったから、ごめん美雅さん、先帰るね」
「ううん、こっちももうすぐ彼氏来るし、平気。付き合ってくれてありがと。バイバイせしもん」
美雅に軽く手を振って、スマートフォンで映画の上映スケジュールを調べながら店を出る。三十分後に上映開始なのを確認して、映画館へ急いだ。
紀穂が高尾絢子と出会ったのは、その逃避行の時だった。そう、あの冬の家出のことを、絢子は逃避行と呼んだ。
目的のないその逃避行で、紀穂はどこへ向かっているのかも分からない道をひたすら歩いた。人のいるところを避けるように、土手やサイクリングロードを選んで道を曲がった。だんだん足の感覚も無くなってきて、日が暮れる頃には喉の渇きも空腹感も分からなくなっていた。
どうにも足が動かなくなり寂れた公園のベンチに座り込んで、もう今日はこのまま寝てしまおうかと思っていた時に、声をかけてきたのが絢子だった。
「こんなところでどうしたんですか」
自転車を押しながら近寄り、心配そうに紀穂の顔を覗き込んでくる。
「今日は冷え込むので風邪引きますよ」
「いえ……あの……家出してきたんで…………放っといてください」
思えば、あの時絢子が一言でも大丈夫か聞いていたら、紀穂はあの場をすぐに立ち去っていたかもしれない。あの時は、「大丈夫?」という一言に耐えられるような精神状態ではなかった。
顔も上げずに突き放すようなことを言った紀穂に少し驚いた様子だった絢子は、「うちに来る?泊まっていいよ」と何でもないことのように提案した。
「……は?」
「この辺に泊まれる場所なんてないし、野宿するには今日は寒すぎるから。明日ここで凍死でもしてたらショックだもん」
紀穂は怪訝そうな顔のまましばらく絢子を凝視し、言葉を探した。
「……や、別に嫌なら良いんだけど」
少し困ったような顔でそう言った絢子に、警戒心が解けるのが分かった。
ゆっくりベンチから立ち上がると、絢子と目線がぴったり並ぶ。座っている時には少し大きく見えたが、身長は同じくらいのようだった。
「じゃあ…お邪魔しても良いですか」
「いいよぉ〜、こっちこっち。ついてきて」
絢子のアパートに着くと、彼女は手洗いうがいのついでにお風呂にお湯を張り始めた。
「体冷えたでしょ。お湯溜まったら入っちゃって。私のでごめんけど適当に着替え貸すから」
衣装ケースからスウェットとパーカーを引っ張り出し、ハッとした顔で「下着!コンビニにあるかな、ちょっと行ってくるね!」と言ってバタバタと部屋を飛び出して行った。
一部始終を見ながら、紀穂は呆気に取られて何も言葉を発することができなかった。
誰かにこんなに、甲斐甲斐しく世話を焼かれるのは初めてだったから。
押し付けるように渡されたスウェットとパーカーからは、柔らかい匂いがした。ぎゅっと抱きしめると涙が出そうになり、思わずボフッと顔を埋めた。
映画館には紀穂の方が早く着いた。チケットを買って売店を見ながら待っていると、急ぎ足の絢子が合流した。
「お待たせキホ!」
「お疲れタカちゃん。はい、チケット」
「ありがとう〜。もう入場開始してる?」
「してるしてる。トイレとか平気なら入ろ」
「職場で寄ってきた、大丈夫」
そう言ってホッとしたような顔で笑った絢子を見て、紀穂も気が緩むのを感じた。安心感、という言葉の意味を理解したのは、絢子と暮らし始めてからかもしれない。
入場口を抜けて照明が暗くなって来たところで、前を歩く絢子の腕を掴まえる。肘のあたりを掴んでいると、スルッと逃げられ手を繋がれる。
「席ここだね。キホそっちで平気?」
「どっちでも良いよー。最後列なんて一席くらいズレてもほぼ正面でしょ」
「それもそうね」
映画を観る時はいつも最後列だ。こだわりがあるのかは知らないが、絢子はいつも最後列の真ん中あたりの席を選ぶ。
「今日はバイト長引いたの?」
控えめの声で絢子が聞く。
「ん?ううん、いつも通りだったよ。なんで?」
「電話した時まだバイト先の近くにいるって言ってたから」
「ああ、そゆこと。バイト先の子の買い物にちょっと付き合ってただけだよ」
「あー、あの、何だっけ、ちっこい子?」
「そう、そのちっこいの」
絢子はうんうんと頷きながら目を細める。
彼女は紀穂が美雅を苦手に感じていることも知っているし、バイト先の書店に来た時に会ったこともあるらしい。
苦手なことを知っていても、絢子は美雅を悪くは言わないし、紀穂に努力して仲良くしろとも言わない。ただ、頷きながら話を聞くだけだ。
「…ねぇ、タカちゃん。ウチ化粧した方がいいと思う?」
そっと、訊ねる。探るような視線に、僅かに振り向いた絢子の視線がぶつかる。
「ん?したいならしたら?」
「そうじゃなくてさ…化粧した方が、タカちゃんウチのこと好きになる?」
すぅ、と場内の照明が落ちていく。映し出された予告編の明かりで、絢子の横顔が、輪郭になって見える。
見惚れた紀穂の腕を引き寄せ、自分の肩に寄り掛からせながら絢子が耳元で囁いた。
「今のままのキホでも、変わっていくキホでも、あたしはキホちゃんなら好きですよ」
真面目な声で言われたその言葉に、紀穂は絢子の肩に目頭を押し当てた。優しく、柔らかい匂いがする。
「じゃあ、しない……」
絢子にいつでも抱きつけるように、化粧は当分しないままでいようと、思った。
タカちゃんとキホ 喜羊 色 @KiyouShiki
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