タカちゃんとキホ

喜羊 色

第1話 タカちゃんとキホ

 瀬下紀穂が寝室で洗濯物を畳んでいると、玄関が開く音がして「ただいまぁ」とくたびれた声が聞こえた。

「おかえりぃ」

 顔は向けずに声だけ返すと、洗面所から水の音がする。手洗いと、うがいと…ああ、化粧も落としてるな。Tシャツを畳み終わり、タオルに手を伸ばしながらぼんやりと耳を傾けていると、疲れた足音が寝室の前で立ち止まる。

「おかえり、タカちゃん」

 紀穂が振り返ってそう声を掛けると、タカちゃんと呼ばれた高尾絢子はションボリしたようなムスッとしたような顔のまましばらく斜め下に視線を落としたかと思えば、突然「だあぁ」と言ってベッドに顔面から倒れ込んだ。正確には、ベッドの上の、紀穂が畳んだ洗濯物を目掛けて。

「あああああ、もうっ。ちょっと、タカちゃん!せっかくウチが畳んだのにぃ…。ワザとでしょ。こら、タカちゃん、どいて」

 紀穂が怒って持っていたタオルで尻を叩いても、絢子は洗濯物の上で死体のように動かない。

 こりゃ何か嫌なことがあったな、と察して紀穂もベッドの上に乗り、絢子の頭の近くに座る。

「どしたの、タカちゃん。やなことあったの?」

 もぞ、と絢子は少し体を丸める。

「………また、言われた」

「あーーー」

 その一言で、何を言われたかはすぐに分かる。絢子をここまで不機嫌に、いや、落ち込ませる言葉はそう多くはない。

「…タカオちゃんが男だったら絶対付き合うのに、だってさ」

 喉から絞り出したような細い声だった。

「男だったらって何よ。たとえ男だったとしたってどうしてアンタとあたしが付き合わなきゃならないのよ。あたしが男だったらアンタなんか絶対振ってたっつーの。何でアンタが優位に立ってるようなこと言われなきゃならないわけ?付き合える前提で話される筋合いないわよ」

 紀穂の一度は畳まれたTシャツに顔を埋めたまま、モゴモゴと絢子は恨み言を唱える。きっと帰る道すがら、頭の中で何度もモヤモヤをこね回してきたのだろう。

「……タカちゃんはもし男に生まれてても絶対オネェだよね。今もすでにちょっとオネェだもん」

「…何も知らないくせに、女のあたしを否定するような言い方、なんでされなきゃなんないのよ…」

 紀穂の膝に、絢子はグリグリと頭を押し付けてくる。

 犬か猫みたい、と思いながら紀穂はその頭をぽんぽんとあやすように撫でる。絢子の方が六つも年上だが、これじゃどっちが年上だかわからない。

「タカちゃん。そんなこと言ってくる女とウチ、どっちが好き?」

 紀穂の問いに、絢子はグリグリするのをぴたっと止めた。

「……キホ」

「え?聞こえないなぁ」

「キホ!キホに決まってるでしょ!キホちゃんです!」

 半ばキレるかのようにそう言うと、絢子はようやく顔を上げて紀穂の顔を見た。ションボリとムスッの中間の顔の絢子は、とても愛らしい。

「あたしが男だったら付き合ってた、なんて言う女よりも『ウチが男だったらプロポーズしてた』って言ってくれたキホの方が数百倍大好きに決まってる」

 ーーウチが男だったらタカちゃんに結婚してってプロポーズしてたわ。

 ーーあたしも男に生まれてたら何も迷わずにキホに交際を申し込んだと思う。

 ーーじゃあ、一緒に暮らしてみる?

 ーーそうだね。来世まで待たないで、一緒に暮らしてみよう。

 もし仲が悪くなっても、紀穂の高卒認定が取れるまでは同居を解消しない。そんな約束で始めた二人暮らしだったが、気がつけば互いの存在が心地よくなり離れがたくなっていた。

「今度そんなこと言う人がいたら、彼女いるからアンタとは付き合わないと思うよって言ってやれば?」

 紀穂の言葉に、絢子はごろんと体を捻って「うちの嫁が可愛いって言いたい」と真顔でキメてくる。紀穂は吹き出しそうなのを必死に堪えたポーカーフェイスで、そのおでこをペチンと叩く。

「おバカ」

「どうも、おバカです」

 ニヤニヤ顔で絢子は紀穂の膝に頭をグリグリして、それからガバッと起き上がった。

「おし、元気出た!夕ご飯食べよ!何がいい?」

「はい!美味しいのが食べたいです!」

「よろしい、では特製スープを作ってしんぜよう!私が荒らした洗濯物は任せた!」

「マジか!許す!」

 台所へ足早に向かう絢子の背を見送り、紀穂は「好きだなぁ」と呟くのであった。

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