離宮にて出会い、出遭う



「あーあ、疲れた……誰だ?」



 小汚い格好の男が、紛れ込んできた。



「は? あなたこそ! ここは、後宮です! 男性は、入れませんよ!」

「……黙って見逃してくれ」

「ええ!? 怒られるの嫌です」

「わんっ」

「言わなきゃ怒られない」


 沙夜は竹箒たけぼうきを立てて持ったまま、彼を上から下まで観察する。

 

 年齢は恐らく沙夜より少し上か。黒髪でがっしりとした体格で、瞳は日の光に当たると金色に見える、はしばみ色。

 薄汚れた灰色の直垂ひたたれ小袴こばかまは、あちこちに泥や砂が付いていて草履の足先は汚い。

 どこか狭くて汚い場所でも掃除したのか、鼻の頭まで汚れている。

 

「はあ。とにかく、俺は疲れている。ここで寝たいだけだ。黙ってろ」

「なるほど。泥だらけなところを見ると、懸命に働いた後のようね」


 沙夜がずいっと近寄ると、彼はたじろいだ。

 眉間にしわを寄せたいかつい表情だが、乱暴な雰囲気でないことに安堵する。足元の玖狼も黙って尻尾を振っているので、警戒しなくてよい人種だろうと判断した。

 

「はたら……まあ、な」

「休憩場所を取っちゃうのは、わたしもイヤかな」


 

 あくまで、ただのお掃除番だしね……ここの管理を任されているわけじゃない。そんな身分じゃないし。

 

 

「なら、放っとけ」

「ただし! 条件がある!」


 沙夜は、びし! と人差し指を彼に突き付ける。

 上体を軽くのけぞらせて片眉をひそめる姿に、思わず笑いそうになるのをこらえた。



 絶対貴方の方が強いと思うけど。素直だなあ。


 

「なんだ?」

「わたしは、ここのお掃除番です。汚すのだけは絶対許さない」


 彼はきょとりとしてから、自分の着衣を見下ろした。

 

「言われてみれば、汚いな。わかった、綺麗にしてから寝る」

「よし! じゃあ、そのままでちょっと待っててね」

「おん!」

「え、おい」


 

 沙夜が裏の井戸で木桶に水を汲んでから戻ってくると、彼は直垂ひたたれの袖口に手を差し入れて腕を組み、庭を眺めていた。

 背が高く背筋もピンと伸びているその後ろ姿は、伸ばした黒髪を頭頂で結っていて、雰囲気だけなら武人のようだ。

 そんな彼に一瞬でも見惚みとれて立ち止まった自分に戸惑って、あえて明るく

「おまたせ!」

 と声を掛ける。


 沙夜は、胸元にいつも常備している自分の手ぬぐいを取り出して、木桶の中の水に浸してぎゅっと絞った。


「え、なにするんだ?」

「そこ座って。拭いてあげるから」


 笑いながら手を伸ばして、鼻の頭を手ぬぐいでこすると、彼は真っ赤になった。

 怒るかな? と思った沙夜の想像を裏切って、素直に縁側に腰かけてくれたので、足元にひざまいてすねを拭いてやる。よく見ると傷だらけだったが、それにはあえて触れない。


「子供扱いするな」

「子供でもこんなに汚さないよ。ほら、草履ぞうり脱いで」

「……母親は大変だな」

「失礼な! わたしはまだ十六だ!」

「その年でも子を産む女はいるだろう?」

「ぐぬぬ。今すぐ追い出してやろうか」

「ふは!」


 彼が、おかしそうに笑う。


「俺を、追い出す! 面白い!」

「できないと思う? ふん!」

「おん!」


 わざと乱暴に木桶に手ぬぐいを投げ入れて、地面に寝かせていたほうきに手を伸ばすと、玖狼もぐるるると喉を鳴らす。

 

「悪かった。とにかく眠いんだ。頼むから寝させてくれ」

 

 男は苦笑しながら、そのまま縁側にごろりと横になった。

 どうやら、汚れた服で部屋に入るのは遠慮してくれたらしい。

 縁側なら、多少土や砂で汚れても、水拭きすればそれで済む。

 

「ならばよし」


 自分の腕を枕にしてゴロリと横になったかと思うと、


「……あ……り……」


 よほど疲れていたのだろう、いくらもしないうちに寝息を立て始めた。

 

 

 ――それからというもの、その男は、一日おきにやってきては昼寝をした。

 


 いつの間にか沙夜は、名前も知らない彼と会うのを心待ちにしていた。



 だってやっぱり、ひとりは寂しいよ……


 

 

 ◇ ◇ ◇



 

「今日は、来ないのかなぁ」

「おん、おん」

「寂しいね」

「きゅーん」


 黒い雲が、空を覆っている。

 天気が崩れそうというよりも、ひたすら重い、真綿の蓋のような空だ。


「なんか、すごく……嫌な予感がする……」


 そして、まとわりつくようにじめりとした空気に、覚えがあった。


「玖狼……もしかして……あやかしが、来る……?」

「ぐるるる」

 


 ――ねちょり



「っ」

「ぐるる、うー」



 ――ぺたり、ねちょり



 バッと振り返るが、その音の主は分からない。

 ただ漠然と、禍々しいものの気配を肌で感じる。


「玖狼、変だよ。皇城は結界で守られてるから安全だって、愚闇ぐあんさんが言ってたのに」


 一人ではこの空気に耐えられずに独り言を放つと、威嚇するように鋭い犬歯を見せる玖狼が、強く唸った。


「うーぐるるるる」

 


 ――うぞうぞうぞ……ねちょり、ぺたりん



「ワンワンワンワンッ!」



 突如として派手に吠えた玖狼の目線の先に


「あ……」

 

 いつの間にか、真っ黒いどろどろの闇が、浮かんでいた。

 

 粘りのある黒い液体が、大きな体から絶え間なく地面にしたたり落ちている。何かを探すように差し出された両手は、行き場なく宙を彷徨うように、ユラユラ揺れている。

 目も足も判然としない。宙に浮かぶネバネバの大きな存在が腕だけ出している――それがついに

「ろーろろろろ」

 沙夜に気づいて、嬉しそうに鳴いた。

 

「ひゅ」



 こんな、の。

 どうしたら良いの。



 足がすくんで動けない。

 あまりの恐怖で、目をそらせない。



 ばあば、ごめん。

 私、何も分からないまま……



「おいッ!」


 そこへ、ダダダダと走り込んで来たのは、いつもの彼だ。


「なにしてんだ! 逃げろ!」


 と言われても、恐怖で足がすくんで動けないのは、仕方のないことだろう。


「ちっ」

 

 彼はたもとから小さな笛を取り出して「ぴ」とひと吹きしたかと思うと、沙夜の二の腕を掴んで強く引き、走りだした。


「ガウッ! ワンワンワン! ワンワンワン!」

「玖狼ッ!」


 沙夜が離れた分、そのは玖狼に覆いかぶさろうとしている。果敢かかんに吼え続けているが、それを意に介すことなく、ねろねろした腕が今にも触れようとしていた。

 

 

 ずっと心を支えてくれていた相棒を見捨て、しかも目の前でくす――


「いやっ!」


 沙夜は、理性ではダメだと分かっていても、捕まれた腕を振りほどき玖狼へ駆け寄る。

 

「あ! こら!」


 

 やめて!

 !!



 脳裏に、ばあばの笑顔が浮かんだ。


 

「――まよいあやかし、はよかえり。めいのもんは、とじかけり。るりのまもりにゃかなわんて」

 


 早口で子守歌をのは、なぜか。

 沙夜には、分からない。分からないが

「ろーろろ……」

 あやかしは即座にぴたりと動きを止め、徐々に存在を薄くし――やがて、消えた。


 

「き……えた……だと……」


 

 愕然とする男の声を聞いて安心した沙夜は、そのまま気を失った。

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