どうやら更衣(こうい)になるらしい
「……
「お調べ申してからご報告をと思った次第で」
「はん。お前らはいつもそうだな。肝心なことはそうして届けぬ」
布団に寝かされている沙夜の耳に、言い争う声が入って来た。
「殿下こそ。なぜに離宮などに」
「それに答える義務はあるか?」
「……」
「くぅ~ん」
ようやく静まったころ、玖狼に湿った鼻で頬をこすられた。
「……ん……」
「わふん。はっはっ」
左頬をぺろぺろと舐められ、くすぐったい。
「く、ろ……ぶじ……? よかった」
徐々に意識が覚醒してきた沙夜は、寝かされている布団がやけにふかふかで軽いことに気が付いた。上等な肌触りは、かえって落ち着かない。
さらに、
「目が覚めたか。おまえ、沙夜というのか」
突然低い声が降ってきたので、びくりとして目を向けると、上から覗き込んでいる男がいた。
何度か瞬いてから、離宮の彼だと分かったものの、
「あなたは……?」
と尋ねると
「
簡素な答えが返ってくる。
「みろく?」
「そうだ」
周りに別の気配を感じ、体を起こそうとする沙夜を
「寝たままでいい」
咄嗟に魅侶玖が気遣うが
「いえ……」
それでも無理やりに起きる。
そんな沙夜を、魅侶玖は黙って支えた。
ほんの数日とはいえ、会話を交わしていた相手だ。お互い気心が知れた様子なのを見て
「はは。これはこれは、げにお珍しいことよ」
黒い
だが沙夜は、ここが掃除をしていた離宮の一室と分かるや、動揺しはじめていた。皇族しか使うことのできないところに、平民の分際で寝かされていたなど、恐れ多すぎることである。どう振舞ったら良いのか、分かるはずもない。
「え、と」
「沙夜殿。
「夢。そんな急に名乗っても沙夜がびっくりするだけだよ」
「むぅ」
「あ! ギー様!」
「やあ。目覚めてよかった」
左大臣の隣でゆるく
「ギーの知り合いか」
魅侶玖が沙夜の枕元から、強い目線で振り返る。
「ええ。沙夜は、われの手引きにて後宮に
「ならば」
「時期
ゆるい
沙夜はそれを綺麗だな、と働かない頭でぼうっと見つつも
「え、と殿下? 左大臣……紫電二位……あ? え!?」
飛び交う言葉があまりにも浮世離れしすぎていて、思考が追い付かない。
「ほう。呼称で身分の高さが分かるのか」
左大臣九条が、面白そうに目を細める。
「えっと、ばあばが色々、話をしてくれていて」
幼い頃に寝かしつけられながら、皇帝や左大臣の武勇伝を聞かされていたことを思い出すと、胸がしくりと痛む。
鬼と一緒にあやかしを倒していく、というようなワクワクする物語だが――今はただ切ない。
「ほほう」
「左大臣って確か、皇帝陛下や皇子殿下の次ぐらいに偉い人ですよね?」
「正解!」
明るい笑顔で言いきられちゃった。喜ぶべき?
「おい夢」
「だって殿下。私って偉いはずなんですよ。なのに敬ってくれる人が本当に少なくてですね」
「……そんなだからだろ」
「えー」
「ふふ、可愛い。あっ、ごめんなさい……」
失礼を言ってしまった! と沙夜は焦ったが、またぱあっと明るい顔をされてしまい、戸惑いつつも魅侶玖を見上げると、
「小娘に褒められて喜ぶとか、気色悪いぞ」
彼は彼で、苛立っていた。
「おやおや殿下。嫉妬ですか?」
「あ?」
空気がぴりっとしてきているのに、ギーが口角を上げて微笑みを浮かべたまま動かないのを見て、沙夜は自分で
「え、と、みろく? は殿下ってことは……皇子殿下ですね」
「……まあな」
ふん、とこちらは偉そうに顎を上げられた。
途端に沙夜の脳内には、皇子に向かって出て行きなさいと言ったり、勝手に足を拭いたりしていた事実が、次々と湧いて出てくる。
今更ながらとんでもなく狼狽し、その態度にはうまく反応ができなかった。
「ええと……その」
震えながら掛け布団をめくって彼とは反対側に下り、畳に両手をついて深々と頭を下げる。
下げながら、命を失う覚悟をする――当然、しきれないが。
「おい、なにを」
「離宮でのさまざまなご無礼、知らなかったとはいえ到底許されるものではございません」
ばあばはこういう事態を見越して、言葉や振る舞いを『遊び』として教えてくれていたのかな――
「お詫びの申し上げようもございません」
そう気づいてしまい、感謝と、なぜ? という気持ちとで心の中がぐちゃぐちゃになり、涙がとめどもなく溢れてきた。
「っ、沙夜。
「……ずび。ぐす」
「泣くな。俺も名乗らなかった。よい」
「でしゅが、こうきゅうのものとして、でんかのことを、しらないのは」
「よいと言っている」
「ふぐぅ」
と言われても、どうしたらよいか分からない。
「沙夜は優しい子だね。あやかしに襲われて怖かっただろうに、そんなことを気にしなくてもいいんだよ」
ギーが音もなく立ち上がったかと思うと、すすすと沙夜に寄り、背後からそっと抱きしめながら伏せていた上体を起こす。
「本当に無事でよかった。こんな無神経な皇子で申し訳ないね。われが代わりに謝ろう」
「おいこら」
「ぶふっ」
ぎゃー! めちゃくちゃ上等そうな服の袖に、鼻水ついた!!
「ギーさま! はなみず! ついちゃった!」
「あっはっは。よいよい。可愛いね、沙夜は」
頭を撫でながら耳元で言わないで! 頬が、あっつい!
すると沙夜は、魅侶玖に真正面からものすごく睨まれ、その後地を這うような声で名を呼ばれた。
「……沙夜」
「ひゃっ」
「おまえ、
今、なんて?
「え!?」
「今日から
「っ! は!」
魅侶玖は言い捨てたかと思うとすくっと立ち上がって、どかどかと去って行ってしまった。
左大臣九条は、座礼でそれを見送る。ギーは沙夜を背後から抱きしめたままだ。その良い匂いでクラクラしながら
ちょっと! 更衣って、なに!?
と沙夜は盛大に動揺している。
「ふくく……沙夜、大変だね」
「え!?」
――ものすごく、嫌な予感がした。
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