後宮へ、いざ参らん
「ここが北門。後宮ってのは皇帝陛下の寝所だから、警備も厳重でね。通行証がないと出入りできないようになってる」
「通行証持たずに出入りしたら?」
「問答無用で斬られる」
「……はい」
思わず下唇をキュッと噛んだ沙夜は、無意識に胸元で手を組み合わせる。
――中に入ったら終わりな気がしてきた! でもばあばの手紙には『後宮に
「というわけで、こっち」
愚闇がいきなり
「へ? あの」
「言っただろう? 偉い人に頼ろうって。
「へ!?」
「おん!」
「だから
「
「お。もう覚えたの? 沙夜は賢いね」
愚闇は、問いには答えずサクサクと歩く。
沙夜は少し小走りになりながらも、ついていくしかできない。
と、また急に愚闇が立ち止まって振り返る。
「ここは、
さきほど通り過ぎたはずの壁の一部に彼が触れると――音もなく開いた。
「さあて、吉と出るか凶と出るか」
「ちょ」
今さら賭けみたいに言わないで欲しい! と沙夜が動揺しつつ城の敷地内に入ると
「誰だそれは」
唐突に、そんな言葉を投げかけられた。
声だけで背筋が凍るような、冷たさをはらんでいる。
「ギー様!」
ば! と愚闇がすかさず地面に片膝を突き、深く
沙夜がぼうっと「玉砂利の上は痛いだろうな」とどこかのんびりとそれを眺めてしまうのは、どうしてよいか分からないからだ。
「この者は沙夜と申し、
すると、紫のゆったりとした
「赤い……綺麗」
思わず呟いた沙夜に対して、ギー様と呼ばれた男は、ニヤァと口角を上げた。その唇の端から鋭い歯の先がきらりと見えている。
まるで牙! 噛まれたら、皮膚に穴が開きそう!
怯む沙夜を、ギーは牙を見せたまま面白そうに眺めている。
「
「いみ……? でも! はいっ!」
「ふくく。愉快な娘を拾ったなぁ、愚闇よ。その犬もか?」
ちろりと玖狼を見やるものの、その目は笑っていない。
沙夜は慌てて立ったまま頭を下げ、玖狼は『伏せ』をした。
「は」
「夕宮のと申したか……だから
「左様です」
「ふくく。あいわかった。沙夜」
「は、はい!」
「われは、ギーという。紫電の二位なり」
「にい?」
「紫電で、二番目に偉い」
「わあ!」
驚いた勢いでのけぞり、その反動をつけて地面に両手両膝を突いて平身低頭する。そんな沙夜の頭上に、ギーはさらに追い打ちをかける。
「身分は、
「わーっ! ははー!!」
ド田舎者が会っていい人じゃなかった! 無礼で切られたら、愚闇のせいだ!
動揺のあまり、沙夜の心臓はドッドッドッと跳ねている。
ギーの声音は柔らかいが、気配は鋭さを保っている――本能的に、絶対に怒らせてはいけない、と誰もが思うに違いない。
「素直で良い。というわけで、書状を見せてくれるか?」
「! は、はいっ!」
沙夜が大慌てで懐から出し、頭を下げたまま捧げ持ったのを、ギーは受け取るや素早く中身をあらためる。
「うむ。真に夕宮の方の印である。さ、
それから、手のひらを沙夜の前に差し出した。
顔は上げたものの、その手を取ることを
この国では、高貴な人間と目を合わせても、ましてや触れてもいけない、というのが慣例となっている。気に食わなかった、という理由で高位の貴族や武人に切られ、命を落とす民も多い。そのため沙夜が触れられないのも仕方がないことではある。だからか、ギーは二の句を継いだ。
「これ。愚闇はさておき、このような痛い思いを小娘にさせるのは忍びない。はよう立て」
それでようやく、沙夜はその手を取る気になった。
「っ、ありがとう、ございます」
手に付いた砂利をササッと取るギーの手を、沙夜は思わず凝視した。鋭く黒い爪をなぜか怖いとは思わず、むしろ胸がじわじわと温まるような気持ちになったからだ。
――なんだろう。懐かしい……?
ギーも何かを感じたのか、立ち上がった沙夜の手を離さず、
「……沙夜と言ったか。
と静かに問う。
「はい」
「意味は分かったかえ?」
「いいえ。『後宮へ
「そうか。命が惜しいのなら、夕宮のお方のお名前は決して出さぬ方が良いよ」
愚闇と同じことを言うなあと思いつつ、沙夜は素直に頷いたが
「代わりに、われの紹介状を書こう。おいで」
その次の言葉には、さすがに戸惑った。なぜそこまで? と思ったからだ。
「へ」
「取って食いやしない。われの紹介なら
「は、はい!」
「愚闇。そのあとは無事送り届けよ」
「は」
「わん!」
ようやく立ち上がった愚闇の足元で、玖狼が尻尾を振っている様は、従順な飼い犬にしか見えない。
沙夜はそれを見て複雑な気持ちになり、歩が止まってしまった。
ギーはすぐに気付いて振り向き、小首をかしげる。
「どうした沙夜」
「あのっ。玖狼は……犬は、後宮に入れませんか?」
「ふむ? 気に入ったのかえ?」
「はい! あの、ひとりでは寂しくて、心細いです」
「……愚闇」
「お任せを」
ギーはこれ以上ないぐらいに、口角を上げた。
「
この時沙夜は、その言葉の意味を全く分かっていなかった。
◇ ◇ ◇
ギーの紹介状には、実際、絶大な効果があった。
普通は、後宮に入ったばかりの
ところが、『
沙夜はありがたいことに、手を出したら殺されるぐらいの勢いで遠巻きにされていた。いわゆる、
「平和だね、玖狼」
下働きは、毎日忙しい。はたきで埃を落とし、床を水拭きし、布を洗い――の繰り返しだ。
側には常に、黒犬の玖狼が寄り添っている。愚闇がどんな手を使って引き入れてくれたのかは、教えてはくれなかった。
「正しきものとか門とかって、なんなんだろう」
紫電二位の紹介なら口も堅いだろうと勝手に判断され、沙夜が後宮最奥の掃除を任されて、早七日。
今やそのさらに奥の離宮が持ち場になり、二日目。
皇族しか使うことができないという『離宮』は、後宮の中でも独立している小さな建物で、住まうことができるようになっている。中の調度品が非常に高価で、皆が皆「
沙夜が喜んで手を挙げたら、
きっと私自身の扱いにも困っているんだろうな……
そうしてひとりで任された、このこじんまりとした建物が、沙夜は気に入っている。
皇族の使う割に、質素で落ち着いた色合いで建具がまとめられているのも、ツツジや百合、水仙やリンドウが植えられ、年中花が楽しめる庭があるのも、だ。
特に、鯉が優雅に泳いでいる大きな池は、小舟遊びができるほどの広さがあって、赤い太鼓橋までかけられている。池の中の大きな石の上で甲羅干ししている亀たちは、のんびりとしていて、見ているだけで癒される。
自分がすべきことは、なんなのか。
自問自答しながら今日も、落ちた枯葉をザッザッと
「あーあ、疲れた……誰だ?」
小汚い格好の男が、紛れ込んでくるまでは。
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