機、熟せり
冷えつつある朝の空気の中で、チュルチュルと鳴く
秋を迎えようかという皇城天守閣にある小さな書庫は、不便な場所にあって滅多に使われない。おまけに入り口の狭い密室であるので、人払いに最適だ。
そこで魅侶玖は腕を組んで
その向かいには、膝を突き合わせて座す、紫電二位がいた。こちらも胡坐をかいているが、対照的に優雅な笑みを浮かべている。
「沙夜が
「うえっ!? オイラただの道案内兼護衛ですもん……思いついて、ギー様に会わせただけですよ。いくら殿下でも、
愚闇が、拗ねる。
産まれてわずか十年で烏天狗に成るなどと、前例のない速さゆえに当然幼い。まだ十歳そこそこかと思うと、魅侶玖はそれ以上何も言えない。
「っ……おい、ギー。お前、
「おやおや。今度はわれに八つ当たりとは」
あれほど具合の悪そうだった紫電二位は、なぜか気力
そのビリビリとした空気に、愚闇は「早く
「あーのー! それより沙夜様は、ご自身が『餌である』と察していらっしゃいましたよ」
「う」
「殿下の
「!」
たちまちボッと赤くなる魅侶玖に愚闇が首を傾げると、ギーがころころと楽しそうに喉を鳴らした。
「これはこれは。熱烈なこと」
「? とにかく、めっちゃくちゃ怒ってたので、早めに何かしら」
という愚闇の意見を遮って
「
珍しく感情を荒らげる皇子が、ギーにはおかしくてたまらない。
しかも愚闇は
「殿下のそれって言い訳ですよね」
恐れることなく言い切るのだから、
「違う!」
だが、言い争いは時間の無駄でしかない。
――パンッ
乾いた音が、白熱したふたりの空気を切り裂いた。
ギーが強く手を振って
「さて。そろそろ愚かな
と目を細める鬼に、愚闇は襟を正して向き直る。
「は。予想通り龍樹殿下が先ほど、皇帝位に就き継承の儀をと蜂起されました。皇城内を
それを聞いた第一皇子は、ぎゅっと眉間にしわを寄せながら、思考を整理するように天井を仰ぐ。
「やはり陽炎はあちらにつくか……結局、
病で弱っていく正妃。ひとり皇子。有力貴族からの圧。
前皇帝は心優しい気質のため、それらの状況に
そうして授かった龍樹が第二皇子となり、彼を
その状況を憂い、裏で皇雅軍の結束を強めたのは、他でもない
皇雅国最強の夫婦が、ある日突然消息を絶った。
「十二年、か」
魅侶玖の呟きで紫電二位の気が鋭くなり、愚闇は思わずぶるりと肩を震わせた。
「十二年? ということは……一周、か!」
「ギー? 一周とは」
「殿下。陛下が
「? もうすぐ四十九日だ。喪が明ける」
『黒』狩衣の良く似合う皇子は、戸惑うしかない。
「ふく、ふくくく。げに恐ろしきかな、陰陽師。やはり全て織り込み済みよの」
ギーが確信を持った目で魅侶玖を見ながら、告げる。
「
「贄とはなんだ」
「
――ぞっ。
「
魅侶玖は思わず片膝を立てた。たとえ小憎たらしく相容れない存在であろうとも、血を分けた弟だ。
そのようなまっすぐな心が、ギーには眩しく、そして
「
どこかのんびりとした愚闇の声が、余計に魅侶玖の焦燥を駆り立てる。その横で
「ふくく。いよいよハク様ご来臨の機、整ったり」
赤鬼が、ニタリと笑った。
◇ ◇ ◇
夜通し
「すず!
「は、はいぃ!」
敷き布団の上で上体を起こしている背をそっと撫でると、彼女はまたぽたぽたと涙を流す。しっとりと濡れた袖口ではもう、ぬぐい切れない。
沙夜は冷たい井戸水でぎゅっと手絞りした布を、差し出した。
「さ、目が腫れています。これで冷やして」
「かたじけなきこと……」
よよよ、ぐしゅ、ずび、と素直に顔を拭う桜宮に安堵した沙夜は、一晩かけて説得し、聞き出した話を心の中で
後宮へ
家からも断りを入れ、それでも個人へ届いた
あろうことか、別の女と結婚したと。
桜宮は、何日も何日も泣き通した。
心配した家族が寄り添うと、夜宮を襲ったような蛇に、囲まれるようになったという。
いっそ呪って、死んでしまいたい。
心の闇に囚われ、あれよあれよと後宮へ侍り、気付かぬうちにあのようなモノに成り果て、なぜか憎しみが夜宮へ向かっていたというのだ。
沙夜の心の中には今、龍樹への怒りが渦巻いている。
だが――
「沙夜。心を平らかにしろ。でなければ付け込まれるし、呑まれる」
「っ、わかってるよ玖狼。でもっ……!?」
――ねちょり。
――ねちょり、ねちょり。
「ひ!」
恐ろしさに強ばる桜宮を気遣いながら、沙夜は目を鋭くする。
――うぞうぞうぞ……ねちょり、ぺたりん
「玖狼は、桜宮殿を」
「沙夜っ」
目の前の庭に、うぞうぞと
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