よみがえる記憶



 ある山の中を、少女が慣れた様子でてくてくと歩いている。鬱蒼うっそうとした山道であるが、わずかにけもの道ができている。

 その先にある小さなおやしろに、自分のおにぎりを分けて捧げるのが、毎日の習慣だった。祭られているのは、ここの山神。自身が住む小さな村をどうか守って欲しい、ともみじのような小さな手のひらで、毎日祈っていた。


 そんなささやかな日課の帰り道。

 少女の足が、突然止まった。


「落ちちゃったの?」


 見上げる大きな木の枝には、からすの巣が見える。足元では、小さな黒いひなが、枯葉の上で弱弱しく動いている。


「そっか……」


 キョロキョロと辺りを見回すと、親烏おやがらすと思われる姿を枝の上に見つけた。が、見ているだけで手助けしそうな気配はない。


「もしかして、巣立ちの練習してるの? ……巣に戻してあげた方が良いかな……でも私の匂い、ついちゃうしな」


 

 うーん、うーんと真剣に悩んでいるその少女を困らせたくない。

 その一心で、雛は翼に力を入れたかに見えた。


 

「わ! 飛べそうだね!? すごいすごい!」


 

 はじける笑顔に応えたくて、より一層羽ばたいてみた――が、飛べない。

 じたばたしている雛を見守っていると、

「おん!」

「え!?」

 何かの鳴き声がした。


 がさごそと草花をかき分ける音が近づいてくる。匂いを嗅ぎつけられたか、と少女は身構える。

 彼らにとって、雛はごちそうだ。


「ああ、どうしよう。ひなちゃん、食われちゃう。でもな……」


 迂闊うかつに手を出してはならない、と彼女は悩む。

 弱肉強食は、自然の摂理だからだ。雛を助けたいが、食わずに飢えるものがあってもいけない。



 そうしているうちに、やがて少女は、黒い狼と対峙たいじすることになった。

 ぐるるるる、と明らかに腹を空かせた様子の口吻こうふんからは、ダラダラとよだれが垂れている。見るだけで恐ろしい、自分よりはるかに強い存在に、少女ははらを決めた。



「この子食べちゃうなら……私からどうぞ」


 

 黒狼はぎゅっと目をつむる小さな少女にたしたしと近づいたかと思うと、頬をぺろりと舐め上げた。まるで味見だ。

 ひと噛みで頭ごと食べられそうなぐらいの大きさの獣を前に、涙を浮かべた少女は、それでも背中に雛を庇ったまま震えながらじっとしている。


「その幼さで捨身しゃしんとは、見事なり」


 狼がそう言ったので、少女はぱっと目を開け不思議そうに眺めた。

 彼はそれを見るや、ふっと笑う。


「われは山神。ひなは食わぬよ。様子を見に来ただけだ。さすが涼月りょうげつ夕星ゆうづつの娘であるな」

「りょうげ……?」

「知らぬなら、良い。どれ、その雛はわれが預かろう」

「!」

「そなたの眷属として育てるさ。きっと必要な時が来る」

「かみ……さま?」

「改めてそう呼ばれると、照れるよな」


 ぱあ、と明るい笑顔になった少女に、黒狼は体をすり寄せた。

 少女は、遠慮なく撫でる。長い毛がふわふわとして気持ちが良く、あちこち触った。

 

「ふはは。くすぐったいなあ。さて、神といってもゆえ大した力はない。そなたの信心しんじんでようやっと命を繋げているようなものだ」

「しんじん?」

「ああ。毎日お供えをありがとう、だな」

「! はい!」

「できれば、名付けてくれるか? そうしたら、力が強まる」

「んじゃえっとね、黒いから、くろう!」

「はっはっは! 覚えやすいなぁ。玖狼。良い名だ」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 


「くろ……玖狼……」

「うん。ずっと側にいたぞ」


 目の端から溢れ出る涙を、ぺろりと舐める。

 目覚めた沙夜を見下ろす、黒い耳黒い毛、そして黒い目の大きな狼は――


「やまがみさま!」


 がばりと体を起こすと、そこは見知らぬ部屋だった。


「おん! ってな。どうだ、うまく化けておっただろ」

「ああああ……」

 

 ニヒヒと笑う彼の首に、沙夜は抱き着いた。少し獣の匂いのする、ふわふわの毛が暖かくて心地よい。

 掛け布団が飛んだのを、いそいそと畳むのは愚闇だ。


「愚闇ってもしかして! あの時の、ひなちゃん!?」

「はい。ひなちゃんです。どうも」


 隠密が初めて覆面を取って、照れた顔で笑う。

 その下は精悍せいかんな男の顔なのだが、どこか懐かしい。あの日助けた、勝気な雛の顔に、確かに似ていた。

 

「ああああもう!」


 今朝目撃した凄惨せいさんな光景を吹き飛ばす事実に、沙夜は大いに動揺した。

 皇都にやって来てすぐに愚闇が助けてくれたのも、玖狼と居たからかと思い至り、たまらず叫ぶ。


「なんで忘れてたの!? なにが起こったの!? ……魅侶玖殿下は!?」


 黒狼と隠密が、顔を見合わせる。


「わん」

「ええ!? 玖狼様、面倒だからってオイラに丸投げ……ごほんっとですね」

 

 ぼりぼりと後ろ頭をかきつつ、愚闇が言うことには――



 夜宮よるのみやに忍び込んだ侍女長が、あろうことか沙夜の首を絞め殺そうとした。

 

 当然気づいた愚闇が飛び込み、阻止。拘束しようとしたが、尋常でない力で抵抗され、斬らざるをえなかった。その殺生せっしょうについては、魅侶玖も隣にいたことから、おとがめは当然なし(第一皇子暗殺の嫌疑けんぎ=死罪相当で処理済)。


 ところが、動揺した沙夜を抱えていた魅侶玖に、なぜかさわりが出た。

 愚闇の機転で玖狼の力を使って祓ったものの――夜宮は白光びゃっこう部隊による正式なはらいが必要となった。

 沙夜の記憶は『神と接した』ことを隠すため一部を封じられていたが、玖狼の封印を解いたことによって同時に解かれた、ということだった。


「てなわけで、しばらくお部屋使えないっす」

「えぇ……? いいけど、言い方軽くない……?」

「もう素でいっかなって」

「ひなちゃんだもんね」

「うぐ。それだけはやめて」


 はあ、と沙夜は大きな溜息をいた。


「魅侶玖殿下は大丈夫?」

「まあ、なんとか……」


 愚闇が玖狼を見やると、ぷいっとしてから敷布団の上に丸まった。

 元の大きな体になったので、足も尻尾も、だいぶはみ出ている。


「あんまり大丈夫じゃなさそうね?」

「あー、まあ。一時しのぎらしくって。油断はできないそうっす。根本を排除せにゃ」

「根本?」


 沙夜が玖狼を見ても、彼は微動だにしない。答える気はなさそうだ。

 

「殿下……」


 正義感のあふれる横顔を思い出して、沙夜の胸はざわついた。

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