深まる闇と、穢れ(けがれ)と
※血の苦手な方は、ご注意ください。
◇
「
「ごめ……申し訳ござりませぬ」
「言葉遣いからしてそのありよう。恥をかくのはこのわたくしぞ?」
沙夜は、額が赤くなるぐらい畳に擦った姿勢で、座礼をしている。
目の前の花瓶に
差したら、みるみる花の元気がなくなったんだよ……あきらかに水が悪いんじゃないか!
叫びたいのをひたすらに我慢して、侍女長のねちねちとした叱責にじっと耐えるのが常だ。
「げに恐ろしき出自よな。全滅した村の生き残りだそうじゃないか。……そなたがやったのではないか?」
「な! ちがいます!」
これにはさすがに、憤って上体を起こした。
「ほぉ、このわたくしに逆らおうてか」
「逆らうとかっ、ただ、事実ではございませんと申し上げ」
「だまれ」
「!」
はあ~、とこめかみを押さえる彼女の顔色がすこぶる悪いことに、沙夜は気づく。
中でもぼこりと額に浮かび上がる青筋は、異様だ。
イライラを隠そうともしない気難しい中年の女は次に、鋭い視線を部屋の隅に控えている愚闇に投げる。
「そこの隠密。殺気をしまえ。これは、
「……指ひとつでも
「はん、言葉ではどうとでも」
が、控えめな隠密には珍しく、あからさまに脅し文句を言った。
「調子に乗ると、後悔するぞ」
「ぐ」
侍女長に
「愚闇」
まだ何か言いそうだったので、沙夜は止めた。あまり脅してもよくない。こういった
「……ひとりごとです」
「っ、気を
ドスドスと足音を鳴らしながら、女どもが去っていく。
沙夜へ侮蔑の視線を投げながらだったので、姿勢を直すフリをしてパタパタと袖を振る。
受け止めません、と自分なりの防衛術だ。
「んもー、愚闇~ひやひやしたよ~~~」
「さすがに腹立ったんで。よく我慢してますね」
「だって。しょうがないもん」
行くとこ、ないし。
なんて言葉はとても口に出せやしないなあ、と沙夜は差す前の百合と花瓶を持って、部屋から回廊に出る。
「おん!」
ギーの
そんな彼は、黒いつぶらな瞳で
「玖狼~この水、変だよね?」
沙夜が花瓶を鼻先に持っていくと、玖狼はその中を軽くすんすんした後で、やはり「ぐるるるる」と唸った。
「あーあ。やっぱり。
「性格悪いっすね。よくそんなこと思いつくなあ」
横からその花瓶をひったくる愚闇を見上げて、沙夜が
「それ、どうするの?」
と聞くと
「侍女長の部屋の花瓶に中身ぶっこんどくっす」
隠密が、覆面越しでもニヤリとしたのが分かった。
「愚闇ったら」
「え? でもやれって思ったっしょ?」
「思った!」
沙夜にとって、玖狼とこの気安い隠密、さっぱりとした性格である侍女のすず、そして
「今日も変わりはなかったか?」
と一日おきに必ず訪れる
どれだけ嫌なことがあっても、彼らに接することで、乗り越えることができた。
毎夜ヒョウヒョウと鳴く謎の声に、
◇ ◇ ◇
ヒョウ、ヒョウ。
小娘め……馬鹿にしおって……
ヒョウ、ヒョウ。
平民から
ヒョウ、ヒョウ。
気に食わぬ。気に食わぬぞ……!
ヒョウ、ヒョウ。
ひひひ、ひひひ。ならば、くびりころせばよいなあ。
◇ ◇ ◇
ああ苦しい。
なんだろう?
息が、できな……
「沙夜!」
「はっ!」
目が覚めた沙夜の目の前に、焦る魅侶玖の顔があった。額から流れる汗の粒が、ぽつぽつと沙夜の頬に落ちてくる。
「無事か」
「え」
たくましい腕の中で、訳が分からず頷く。無事ではある。だが――
首をめぐらせようとした沙夜に
「見るなっ!」
強く叫ぶ魅侶玖の声は、それでも遅かった。
「ひ!」
白目を剥いて仰向けに倒れている女は、首元を切られている。
事切れた侍女長から飛び散った赤が、沙夜のいつも使っている布団の色を変え、畳をどす黒く染めていた。
障子窓にまで激しく飛び散った、赤、赤、赤。
その傍らに片膝をつくのは、愚闇。手には赤黒く濡れた忍刀を逆手に持っている。
そうだ、ここはいつもの寝室だ。間に玖狼を挟んで、魅侶玖と並んで眠って、それから――
赤い……
血の、匂い……
ああ、これ……あのときとおなじだ。
「ばあば」
なんで死んじゃったの?
なんでみんな食われちゃったの?
なんでわたしをひとりにするの?
「ああ、憎しや憎し」
「沙夜!」
「うつしよも、かくりよも」
「沙夜! いかん、様子がおかしい。今すぐギーを呼べっ、ぐ」
「殿下っ!」
「な、んだこれは……」
うつろな目をした沙夜を抱きかかえた魅侶玖の体から、黒い
それを見た愚闇は、当然戦慄する。
「まずい、
血のついた忍刀をさっと
「呼んだか、愚闇」
玖狼が、唐突に
「は」
「なるほど穢れとはな……厄介なことよ」
にやりと笑うその口元から犬歯をのぞかせ、彼はその体をいつもより二回り大きくする――その様は、犬ではなく狼だ。
「
「は! 玖狼様!」
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