後宮の黒姫は、冥門に微睡む

夜に、心を寄せて

　音のない、静かな夜。

　なんとなく眠れない沙夜は、縫物に勤（いそ）しんでいた。すずが

「欲しいものは作りますよ」

　と言ってくれはしたものの、手を動かしていないと落ち着かないからだ。

　そこへ、

「沙夜」

　障子（しょうじ）の向こうから低い声で呼ばれた。

「げ」

「？　都合が悪いか？」

「わ、るくはないです。どうぞ」

　夜宮（よるのみや）と呼ばれるこの部屋に、魅侶玖（みろく）がいきなりやってきた。

　すずを見やると、にっこりと微笑んでから丁寧な座礼をした後、引っ込んでいく。

　皇子が、夜も更（ふ）けたこのような時間に後宮を訪れる。その意味は、誰でも知っている。沙夜はそ（・）の（・）こ（・）と（・）を思い、ビクビクしてしまった。心の準備とか、体の準備とか、いやいや、したくないし！　すず、行かないでー！　などとグルグル考えていると――

「ああ、伽（とぎ）をしろなどと言うつもりはない」

「ひ！　え？　ほんと!?　ですか」

「当たり前だ。俺がわざわざ更衣（こうい）として召し抱えたのに通わないとなると、それはそれで面倒なことになるってだけだ」

「ああぁ～よかった～」

　まだ寝巻に着替える前で良かった、と密かに息を吐きつつ、座礼で魅侶玖を迎える。

　その魅侶玖は、どかりと胡坐（あぐら）をかくと

「……すまんが、朝までいるぞ」

　ばつの悪そうな顔で言う。

「わかりました」

　沙夜が縫物を唐櫃（からびつ）にしまっているのを横目で見つつ、ちろりと魅侶玖の視線は襖（ふすま）の向こうの続き間に投げられる。愚闇が控えているのも承知しているということだろうと悟って、その細かい気遣いに微笑む。

　とと、と玖狼が寄って来て、沙夜の膝に横から顎と前足を乗せ耳を伏せた。それを見た魅侶玖は、苦笑いしながら言う。

「沙夜」

「なんです？」

「だいじないか」

「っ。ごほん。はい」

　眉間に深いしわを寄せたまま、気遣わないで欲しい。違和感がすごいから！

　控えめに魅侶玖の顔を見てみれば、目の下に隈があることに気づいた。忙しいのだろうかと、沙夜は玖狼の頭を撫でながら心を落ち着ける。

「あの……」

「なんだ」

「質問があるのですが」

「言ってみろ」

　行燈（あんどん）の中のろうそくの光が揺れて、顔の半分が陰っている魅侶玖の本心は、沙夜には読めない。

「なぜ、わたくしのような平民のお召し抱えを？　あやかしを消したからでしょうか。わたくしは何も知りませんが」

「……そうだな。きちんと話をしなければと思っていた。沙夜には聞かせるべきだと俺は思う。秘密は守れるか？」

「守るも何も。天涯孤独の身ですし、皇都に知り合いはおりません。ご存じでは？」

　先日、左大臣九条が「調べた後で報告を」と言っていたではないか。

　暗に抗議を滲（にじ）ませた沙夜の言に、　

「そうだったな」

　ふ、と魅侶玖は肩の力を抜く。

「皇雅国（こうがのくに）に伝わる護（まも）り刀の話は、皆知っていよう。その名を、青剣（あおのつるぎ）という」

　この国の民なら、誰もが知っている。

　親兄弟や村人から口頭で伝えられ、皇帝を敬わなければならないと教えられる、皇雅国（こうがのくに）の礎（いしずえ）となる話だ。

「はい。世に溢れているあやかしから人々を護（まも）るため、先の皇帝が賜（たまわ）った宝剣あり。それを奉（たてまつ）る国を護るものである……ですね」

「そうだ。代々皇帝がその宝剣を祀（まつ）ることで、この国の平和が維持されていたが」

「が？」

「皇帝は継承の儀をしないままに冥界へ渡られ、かつ、青剣は失われたようだ」

「っ!!」

「事態は深刻だ。しかし皇城のやつらは、次の皇帝を誰にするかで争っている。誰も民の命のことなど考えておらん」

　ぎり、と胡坐をかいた太ももの上で、魅侶玖の拳が白くなる。

「皇都には軍がいるが、他の村々は」

「わたくしの村も、あやかしに食われました」

「聞いた……すまない」

　あなたが謝っても！　と叫びたかったのを、かろうじて沙夜は堪（こら）えた。堪えた分、涙となって出てくる。怒りと悲しみと、無力感。あのような惨劇を目の前で見て何もかも失った今、生きている自分のことすら責めている毎日なのだ。

　魅侶玖は座ったままにじり寄り、震える沙夜の背を遠慮がちに撫で、袖で涙を拭く。地味な黒い狩衣（かりぎぬ）から漂うかすかな香の匂いに、沙夜の胸が少しずつ落ち着いていく。

「本音を言えば、今までの俺は皇帝の座に興味がなかった。だが、即位することで皆が救われるのならとっ……」

　ああ。この人も、苦しんでいると分かってしまったなあ。

　それから沙夜は、無理やりに色々飲み込む。飲み込んで、鼻をすすって、彼のはしばみ色の目を見つめる。

「殿下は離宮で、何をしていたのですか？」

「手がかりを探していた」

「手がかり？」

「国宝の、手がかりだ」

　魅侶玖は、眉間に深いしわを寄せて天井を仰ぐ。

「青剣（あおのつるぎ）には、自身を守る眷属（けんぞく）がいるという。すなわちそれが、皇帝の眷属になるのだと言われた」

「けんぞく」

「そうだ。代々の皇帝は、もののけと呼ばれるものたちから力を借りてきた。眷属として盟約を結んで」

「盟約」

「ギーもそのうちの一人だ。皇帝が不在となり彼との盟約は切れたが、俺が頼み込んで猶予をもらっている。次の皇帝即位まで留まる条件が、青剣の眷属を探し出すことなんだ」

「そうだったんですね」

「俺は、その手がかりが沙夜にあると思って、召し抱えた」

「へ!?」

　沙夜が思わず素（す）っ頓狂（とんきょう）な声を上げたのを、魅侶玖はじっと見つめる。

　玖狼が心配そうな顔をするので、大丈夫というように沙夜が頭を撫でると、尻尾が一度だけ持ち上がって、またぱたりと畳に落ちた。

「あやかしを消したからですか」

「それもあるが……そなたの目の色が」

　魅侶玖が唐突に、身を乗り出して覗いてくることに、沙夜は戸惑った。

　そういえば、背を撫でられるほど近くにいる――

「綺麗な、瑠璃色だ」

　どくん！　と心臓が跳ねる。

「瑠璃……黒では……？」

「はじめは黒だった。いつからか、瑠璃になった」

　ハクが言っていたことを思い出す。沙夜の中のなにかが、起きたばかりだと。

「沙夜。巻き込んだことを許せとは言わない。今の俺にとってはどんなことでも、国のためならば」

「……龍樹（りゅうじゅ）殿下とは大違いですね」

　魅侶玖の言（げん）を遮（さえぎ）るなど、無礼と分かっていても止められなかった。

　彼はそんな沙夜を咎（とが）めることはせず、体を寄せたまま会話を続ける。

「会ったそうだな。何を言われた？」

「わたくしごときが召し抱えられた、その手練手管（てれんてくだ）を教えよと」

「何と答えたんだ」

「汚れた足を拭いたから」

「ぶっは！」

　盛大に吹かれるとは思っていなかった沙夜は、目を丸くして彼を見つめた。

「ぶくくく、あははは」

　挙句、お腹をよじる勢いで爆笑し始めるのだから、どうしたら良いのか分からない。

　玖狼が立ち上がって魅侶玖の頬を舐めると、わしゃわしゃと撫でてそれに応える。犬と楽しそうに戯（たわむ）れるのを見て、ようやく沙夜は緊張を解くことができた。こうして見ると、ただの無邪気な、年の近い青年である。

「殿下!?」

「ああおかしい！　その時の、奴の顔を見たかった！」

「きょとんとしてましたね」

「ぶっ！　ははは！　くくくく」

「んもー、そんなに笑わなくても」

「すまんすまん。事実なのもおかしくてな」

「え？　事実だったんです？」

「ああ」

　魅侶玖は玖狼の頭をくしくしと撫でながら

「手がかりなどと言ったがな。俺になんの見返りも求めず、優しくする人間がまだいたことが……純粋に嬉しかったのだ」

　となんでもないかのように言った。

「殿下……」

「あーあ。なんだか眠くなったぞ、沙夜」

　照れ隠しなのは分かっていたけれど、それには気づかないフリをする。

「お布団敷いてもらいましょうか」

「いいのか？　俺の隣で寝るはめになるぞ」

「玖狼がいますから」

「わん！」

　わはは！　と魅侶玖は満面の笑みで黒犬をまた撫でる。

「頼もしい護衛だ！」

　玖狼が目をキラキラさせて尻尾を振るのを、沙夜は穏やかな気持ちで見つめていた。

　辛いことはたくさんあった。どうにもならない苦しみは、一生抱えて生きていかねばならない。

　だが、第一皇子がまともに国を護ろうとしている。それが分かっただけで心の一部が救われる思いだった。

　間に玖狼を挟んで、並んで床（とこ）についた沙夜は、久しぶりに良く眠れた気がした。

　それは魅侶玖も同じだったようで――

　離宮の時のように、一日おきに夜宮に通うようになった。