第4話

8


「私今別のを狩ってるからさ。ちょっとすぐには行けそうにないんだよね。京ちゃんだとまだ相手にできないだろうから、私が行くまで――」


 行くまで、何だったのだろう。奇梓さんの言葉を最後まで聞くことが出来なかった。


 無音、耳に感じる唐突な違和感。耳垂れのように何か濡れた感覚がした。指で確認すると血が出ていた。とっさにやつに目をやる。やつも全ての耳から血を流している。


 その刹那、またやつが飛びかかってきた。反射で飛び退こうとしたが、背後の夏凛さんがよぎりその場で硬直してしまった。


 やつの突進を正面から受け止める。慣性の法則を感じる。”耳”共々、高架下まで吹っ飛んでいく。


「っうッ!??!」僕の語彙では表現できない熾烈な痛みがお腹に走る。喰われている。堪らずやつを掴み放り投げる。高架の向こうの交差点からグロテスクな音が聞こえた。


 蠢く耳の正面は真っ赤な血で染まっていた。僕を喰った影響なのか、トイレで見たときよりも大きくなっていた。


 きっと僕のお腹はスプラッター映画みたいなことになっているんだろう。しかし危険な痛みは若干弱まっている。アドレナリンが出ているのか、指の前例のように治癒されているのかもしれない。


 ごおおん、と音が聞こえる。中央線が通過している。僕の耳も治りつつあるようだ。


 奴の攻撃は僕に決定打を与えられない。となれば、何とかなるかもしれない。


 夏凛さんの方を見る。まだ眠っているようだ。


 このまま夏凛さんの方へ行けば彼女も被害に合う。だからこれ以上近づけない。むしろやつが僕へ注意を向けているなら囮になった方がいい。でも一人で寝させておくには……


 僕はさらにあたりを見回した。僕と一緒に飛ばされたスマホの在りかが知りたくて。


 ――あった。スマホは坂の途中にある。奴から離れたところだ。


 気づくや否や、電光石火で手を伸ばした。が、また無音になる。やつが僕の動きに反応したのだ。けれども僕の動きを止めるほどではない。


 僕はスマホを取り上げるとすぐに奇梓さんへ通話した。通話中の表示になった瞬間に叫ぶ。


「昌平橋のメイドさんを保護してください!!!」


 奇梓さんが了承したかどうかはわからない。音が聞こえなかったから。けど、これでやれることはやった。


 刹那、奴が僕に突っ込んできた。ゾーンに入っているようで、身をひるがえして難なく躱した。耳の衝突地点はべちょっと赤黒いシミで汚れた。


 無音にする以外、攻撃方法は突進しかないらしい。僕はさらに勝算立ったことにほくそ笑んだ。


 淡路坂を駆け上がる。蠢く耳は後を追うように僕へ攻撃を仕掛ける。しかし完全に間合いを見切った僕には届かない。


 幾度となく肉が潰れるような音を背にしながら、地下鉄入り口の交差点までやってきた。ピリッと空気が変わったような気がする。ドーム型の屋根と十字が目に入った瞬間、激しい動悸がした。逃げるように聖橋へ進んだ。奴も相変わらず僕の後を追っている。ここまで来ればさっきみたいに飛んで逃げることができるだろう。


 欄干めがけて助走をつける。飛びあがろうと足に力を込めた、その時だった。


 世界がぐらついた。足をかけた途端に前後左右が不覚になった。ちゃんと飛べたのか、その判断がつかないまま、アスファルトに落下した。


その痛みをもってして、自分が飛ぶことに失敗したのだと気づいた。


気づいた瞬間、お腹の中からマグマが溢れるような感覚がした。耐えきれず嘔吐する。頭はぐわんぐわんとしている。


倒れ込んだアスファルトが直立になっていた。けれども重力は確かに地面の方にかかっている。


咄嗟に発生した身体の異常についていけなかった。


朦朧とする視界の中、かろうじて奴の姿を捉える。


欄干越しにはうねうねとした耳の集合体が漂っていた。ついで、百人の老若男女の絶叫を混ぜ込んだような不快な悲鳴がなったかと思うと、またしても無音の世界に取り残された。


 蠢く耳は突進してこなかった。


獲物を追い詰めた虎の如くにじり寄っている。


さらに、その不快な塊の中央が開かれ、中から昨日の夜見たような黄ばんだ歯が姿を出した。


噛み合わせもへったくれもない、ガタガタな歯並びのそれは開かれた虚空に螺旋状に生えていた。


虚空はどんどん大きくなっていき、悪寒のする耳の動きは激しさを増した。そして、僕めがけて飛び降りた。


 無音の中、心臓の鼓動だけは聞こえた。奴が近づくにつれて僕の寿命が縮まっていく。


 何が楽になるだ。何が幸せだ。こんなの、こんなのって……!


 仕事に追い回される方がマシだ。プロデューサーの気まぐれによって徹夜で仕上げて仕様を蹴られても命は無くならない。


 自己肯定感を感じなくたっていい。布団にくるまりながら朝日に怯えている方が痛くない。


 真っ当に生きなきゃという強迫観念に心を焼かれている方が何万倍もいい。死んだように生きる方が幸せだ。


 ノートに願った終焉がリアリティを伴って迫る。救われると負ったのに、楽になると思ったのに。待ち構えていたのは残酷な苦痛だけだった。


 目を瞑った。全てから目を逸らすために。


「――私の眷属に何してくれてんじゃ!!!」


 籠った声が響いた直後、頭上から肉が砕ける音が聞こえた。


 目を開ける。蠢く耳は見えない。


 あたりを見回すと病院前の交差点に大きく膨張した奴がいた。相対するのは奇梓さんだった。彼女の持つ得物が文字通り闇を切り裂くように弧を描いて光っている。奴が奇梓さんへ喰らいつこうと覆いかぶさる。が、その気味の悪い耳の塊はハルバードに割かれた。


聞くだけで辛くなる悲鳴が御茶ノ水に響いた。


9

「立てる?」


 奇梓さんが手を差し出す。僕はそれを握って、それだけでは立てなかったので、肩を借りて立ち上がった。


「まったく、困った眷属ちゃんだこと」


 戯曲チックなセリフはクリアに聞こえた。グラグラする感覚ももうない。


「すみません」


「そこはお礼を言うの」


「ありがとうございます」


「よし」


 くしゃっと笑うと、梗江さんは僕を抱きしめた。


柔らかな感触と甘い匂いに包まれる。


そんな安堵を感じていると、何だか目の奥が熱くなってきてしまった。


「怖かったね」


「はい……」


 しばらく彼女の胸から顔を上げることが出来なかった。奇梓さんは何も言わずに頭をなでてくれていた。その感触の一つ一つに涙した。人を辞めたがって、人生を終わらせたかったのに、今生きている事実に胸が震えた。


「手間がかかる眷属め」


 10分後、涙やっとが収まって顔を上げた。


「うわ、ひどい顔」苦笑しながら彼女はハンカチで顔を拭いてくれた。


 確かに涙や血や吐しゃ物など、とても人に見せられない状況になっているだろう。


「ありがとうございます」


「本当に」


「ごめんなさい」


 むにゅっとほっぺを抓られた。悪戯っぽく口角を上げている。謝ってはいけないらしい。


「あの、夏凛さんは?」


「ちゃんと保護したよ。今は私の家で眠ってる」


「よかった」


「というかご主人様にあんな命令するなんて、いい度胸だよね」


「ごめんな……あれはああするしか」


「今は謝って欲しいんだよね」


 奇梓さんはまた僕のほっぺを抓った。「主従関係はハッキリしないと」と言いながら。奇梓さんの悪戯心に火がついて、しばらく僕のほっぺはおもちゃになった。


「じゃあ、助けたお礼に今度血を飲ませてね」


 るんるんの顔で言う。目の奥は加虐的な好奇心が揺らめいていた。そんな顔をされたって答えは変わらない。


「い、いやです」


「命の恩人だよ? しかも2回も救った」


 にっと両手でほっぺを抓られた。口が横に引っ張られ、間抜けな顔になる。奇梓さんはそれを楽しんでいた。


「らめです」


「"ダメ"はダメ」ふっとトーンを落として、息が止まるような美貌でたしなめてくる。街灯に照らされた白い肌。光る犬歯。世界の時間が止まったかのような錯覚。僕はきっと本能から首を縦に振った。振るしかなかった。それを受け取った梗江さんは目じりに皺を作って、


「じゃ、約束ね」


と、耳元でささやいた。


 お腹の奥がキュッと締め付けられる感覚がした。


 約束。約束なのか。じゃあ守らないといけないな。耳元で感じた吐息に真っ赤になりながらそんなことを思う。


 固まっている僕を後目に奇梓さんは御茶ノ水橋へ進む。


「私の家に来なよ。その恰好、さすがに一人で返せないからさ」


 言われて自分の風体に意識を向ける。


ボロボロのTシャツはお腹の部分が食い破られて、殺人事件の被害者のような血痕のつき方をしている。七分丈のデニムも血痕がべったり黒くついており、神田川に落ちたかのような汚れ具合だ。


うん、これはひどい。というか女の子がこんな格好してちゃいけないな。


 僕はもじもじしながら彼女の後をついていった。


 奇梓さんの家は御茶ノ水にあった。御茶ノ水から水道橋の方へ進んだマンションが住まいだった。


僕の家より1.5倍くらい広い浴室を借りて、汚れを流すとリビングに向かった。奇梓さんはソファに座ってビールを飲んでいた。というか飲むのか。解釈違いだったが、現実を受け止めた。


奇梓さんは入ってきた僕に気付くと隣を促した。誘いに乗り彼女の左に座る。何を話すでもなかった。彼女はビールをちびちびと飲んでいた。


「あの、夏凛さんは」


「……」無言で奥の部屋を指した。そこに寝ているらしい。一目見ようと立ち上がると、右手を掴まれた。


「ダメ、座ってて」


 優しい調子ながら、視線を合わせなかった。僕は素直に従って座りなおした。右手は掴まれたままだった。


「この身体。誰が操縦している?」


 優しい声色で問いかけられる。


「何のことですか?」


「伽藍屋くんはどっちかなって。朝、言ったでしょ?」


「――生きるなら誰が自分の体を操縦しているかは理解しておいた方がいいよ」今朝の奇梓さんの助言がリフレインした。


「今は、吸血鬼です」


「明日の朝も?」


「昼間は人間です」


「身体だけのこと聞いてるんじゃないよ」


「……正直、わからないです」


「そうだよね。だと思ってる。けど、わかったと思うけど、吸血鬼はこういうこと多いから。痛いし辛い」


「はい」


「最初はさ。あ~あ、この子吸血鬼になっちゃったな~。大変だな~って思ってたけど。けど、伽藍屋くんは昼間、人間に戻れるじゃん。だから、超ラッキーじゃんって思ったんだけど、やっぱり混沌に絡まれてボロボロになってるし……」


 奇梓さんはビールで唇を濡らした


「今朝はああいったけど血を吸う吸わない以前に、私たち人間じゃないものにはそれ相応の使命があるんだよ。だからこれからも混沌に絡まれるだろうし、それと向き合わなきゃいけない。けど、伽藍屋くんは多分その覚悟がない。できない。なぜなら今を生きれないから。人とか吸血鬼とか関係なく。だからもう一回、あえて言うけど。……ご愁傷様」


「……はい」


 あの時言われた言葉より含みがある気がした。それは受け止める僕の心境の所為もあったからだと思う。


輪廻転生したとしても魂は僕自身だ。人生が変わったとしても進むのは僕自身だ。


それはつまり、変わった先で幸せじゃなかったら、不幸になるのは僕自身だということ。


 僕は仕事ができない。中途半端だ。


社会人として、クリエイターとして、人として、吸血鬼として。


全てにおいてどっちつかずだ。だから仕事ができない。だから生きにくい。


どちらか派閥をはっきりさせれば。


我を忘れて仕事に没頭すれば。


そうすれば、多分今より見える景色は違うんだと思ってる。


けど、僕はそんな勇気がない。


全てを投げ出して何かをやりぬく胆力がない。


安牌を求めてしまう。


保険を作ってしまう。


背水の陣なんて経験ない。


そんな極度のストレスに耐えられない。


だからこそ、吸血鬼にもなり切れないんだ。


けれども、なり切れないなりに。決断できないなりに。


僕は僕の身体を操縦したい。


それだけははっきりと思う。


「僕が僕でなくならないのであれば、僕は生きていたいです」


奇梓さんの手を握り返した。


「そっか……じゃあ、ちゃんと進めるように私が付いていてあげるね」


奇梓さんはまたくしゃっと笑った。そして僕の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でる。


その感触がたまらなく嬉しかった。


10

 奇梓さんにひとしきり撫でてもらった後、僕らは夏凛さんの眠っている部屋に入った。奇梓さんもついてきた。


そこは奇梓さんの使っている寝室だった。あまりものを置かない主義のようでダブルベッドとドレッサー以外はないがらんとした印象の部屋だった。


夏凛さんは、ベッドの中央で寝息を立てている。よかった。混沌を引き離した後、何事もなかったようだった。


安堵と同時に、夜中に彼女を放置した自分を恥じた。切羽詰まっていたからと言って、混沌以外にも、暴漢に襲われるかもしれない。それなのに放置するのは無責任すぎる。


「あれ……耳は、いや夢?」


 傍らに佇む僕に気付いたのか夏凛さんが目覚めた。


「いえ、もう倒しました」


「私がね」


「京ちゃんと……誰?」


「奇梓メア。伽藍屋ちゃんのご主人様」


「え?」


「混乱するようなこと言わないでください!」


 したり顔の奇梓さんをいなして事情を説明する。混沌に襲われたこと。途中で気を失って保護したこと。ここは奇梓さんの家だということ。ひとしきりの説明に、夏凛さんは大変戸惑っていたが何とか飲み込んだようだった。


「じゃあ、二人とも吸血鬼って?」


「はい」


「……なんか、信じられない」


「こうすればどうかな?」


 ドレッサーの三面鏡を開いたのは奇梓さんだった。そこに映っているのは夏凛さんのみ。それに気づいた彼女は目を剥いている。


「吸血鬼は鏡に映らない。ニンニクが苦手、十字架も遠慮したい。太陽も、できれば陽に当たりたくないよね。あ、けど流れる水の上を渡れないとか、招かれないと家に入れないとかは迷信だから」


アヒージョとか、食べさしたらどうなるんだろうかと聞きながら思う。僕も食べられないのだろうか。


「そ、そうなんですね」


「ま、私たちは基本的に人間の味方だからね。血を吸おうとかしないから安心して」


「あの、じゃあ……こんなこと言うのも変な話なんですけど、けど、けど吸血鬼って言うから、もしかしたらで言うんですけど……」


 夏凛さんはすごくためらっていた。言いたくないのか、何度も目を伏せ手遊びをている。だが、ようやく決心がついたようで、真剣な表情で僕らを見た。そして――


「幽霊って見えますか?」


 思いもよらぬ問いかけをしたのだった。

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仕事ができない僕だから 煌﨑凛之介 @AndreZappani

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