第3話

7

 秋葉原某所。


 雑居ビルのすすけたエレベーターを最上階で出て、点滅する蛍光灯に照らされた雑多な踊り場のような小さなフロアにたたずむ。


 斜め前には先ほど声をかけてくれたメイドの夏凛さんがいる。


夏凛さんはビルの内装から浮きまくっているキュートな服装をしている。厚底に白ニーソ。フリフリのミニスカに、やっと気付いたが背中には小さな羽が生えていた。


「うち、悪魔がコンセプトなの」


 そう可愛く振り返ると、またもや内装から浮きまくっているポップな扉に手をかけた。


 中は、紫とピンクを基調としたガヤガヤした異空間だった。


 シャンデリアのようなデザインの証明が怪しげな似非炎を灯しながら吊るされ、並べられたテーブルや椅子は白色に薄い紫を施した小さな蝙蝠の羽が付いている。


 右手に目をやれば、むしろバーが主体なのでは思えるほど、カウンターの向こうに様々な酒が並べられていた。


「おかえり~、そしてようこそ~」


 カウンターの中の女性が僕らを見つけるや否や、甘ったるい声で歓迎する。夏凛さんはそれに笑顔で答えると僕を端の席へ誘導した。


「この子私のおごり」


「そうなの?」


「お得意様だから。これからね?」


 悪戯っぽく笑う夏凛さんに、思わずドキッとしてしまう。


 いや、というか。


コンセプトカフェってこんなになっているのか。メイドカフェよりも酒が多い。あと、なんか知らないけどドキドキする。


 結局僕は夏凛さんの誘いに乗った。


 決定打は神那岐さんからのスマホ着信だった。警察に来てもらったこと、僕はどこに行っているのかということ。追いかけてきているわけではなかったが、なぜかビビッてしまって身を隠せる場所を追い求めてしまった。


『ごめんなさい、体調不良だったので、何も言わずに帰ってしまいました。女の子、不思議ですね、明日出社した時に何か取られてないか確認します』


『いや、何も取られてなかったみたいだよ。あとごめん。一応パソコン弄っていたから中も見させてもらいました。何もなかったけど。体調大丈夫ですか? デスマーチ続いているので、無理しないで。明日も調子悪かったら休んでいいよ』


 神那岐さん優しいな。逃げてしまって申し訳ない。


 返答を済ませて正面を見る。夏凛さんが肘をついて、僕を伺っていた。


「で、何飲む?」


「え、えっと。ラフロイグのソーダ割りを」


「え?」


 あ、しまった。おごりなのに、普通にお酒頼んじゃった。


「あ、いや。すみません。えっとおススメは?」


「いや、別にいいんだけど。京ちゃん、20歳超えてる? まさか私より年上?」


「え?」


 何のことだろうか? どう見ても、アラサーに突入した弱者男性……ではないのか。今の僕は。


 急いで取り繕いの言葉を探す。だが、ここまで来て変に自身を偽るのは悪手だと思い素直な年齢を答えた。


「見えない……。え、ドッキリとかじゃないよね?」


「あ、ああ~。よく言われます」


「身分証とかある?」


 ギクリ。超古典的な擬音が行間に流れる。


 身分証? さえない死にかけの男が映っているゴールド免許しか持ち合わせていない。


 いや、そもそも財布を会社に置きっぱなしなので、今ここで出してと言われても出せない。どちらにせよ、僕を僕だと証明できるものはないわけだ。


「あ、いや……忘れたというか」


「忘れた?」


 あれ、なんか夏凛さんの目がキリってなったような。


「京ちゃん本当に20歳超えてる?」


 疑惑の視線が僕向けられる。非常に気まずい。


 確かに、女の時の僕は26歳の人生終了しかけた弱者男性とは似ても似つかない。高校生、いや、大学生くらいの、未来が明るい陽キャな少女だった。


 そんな少女がお店でいきなりウイスキーなんて頼むわけもなく、というかスコッチの銘柄すら知らない子がほとんどだろうに。こんな注文は異質過ぎる。


 夏凛さんは眉間の皺を深くしながら、その大きな目で僕を射抜いている。メラメラとした何かが瞳の奥にあるようだった。


「すみません……」


 尋問を受けているような空気に耐えきれず僕は白状した。


「ダメだよお姉さんを謀っちゃ」


 オリジナルノンアルカクテルを作りながら夏凛さんは僕を窘めた。


 突き出されたのは青と赤の2層になったドリンクだった。上はブルーハワイで、下はブラッドオレンジジュースだそう。混ぜるとお店のテーマカラーの紫になるのだそうだ。


「ん、美味しい」


「でしょ! 中にアサイーも入ってるの、紫要素を追加♡」


「すごい、味が複雑で、でもさっぱりしてて」


「やっぱ作る人が上手いからね」


「さすがです」


「いや、突っ込んでよ。……今日はお客さんあんまり来ないみたい」


 店内を見まわして夏凛さんはそう言う。確かに人がいない。見まわして再び前を向くと夏凛さんと目が合った。真剣な面持ちの奥に、どこか怯えがあった気がした。


「お店的にはダメだけど今日に限っては良かった。ねえ、話してくれない? 何から逃げてたの?」


 なんで夏凛さんはこんなに僕のことを心配してくれるのだろう。問いかけられた質問へのお茶の濁し方を考えるよりも前に気になった。たかが少女が一人、夜の秋葉原を逃げまどっていたからって、ここまで親身にするだろうか?


「なんで、そんなに心配してくれるんですか?」


 びくり、と潜んでいた怯えの気配が大きくなった気がした。


「……そういう性格なの」


 真剣な表情だった夏凛さんは、今度は逆に思いを悟られまいと目を伏せている。何かがあったんだろう。僕にはわからない、決して踏み行ってはいけないことが。


 僕を心配するより自分を心配した方がいいのに。


 僕は沈黙をつまみにカクテルを飲んだ。


 夏凛さんはまだ何かを考えている。


「けど」小さな声が発せられた。夏凛さんは何かを決心したような顔になっている。


「お願いだから、命を安く売っちゃだめだよ」


「……」


 あれ、おかしいな。なんで目頭が熱くなるんだろう。今日会ったばかりの女の子に心配されただけで、どうしてこんなに心が辛くなるのだろう。


「お花を摘みに行ってきます」


 フロアの外のトイレへ逃げる。店のポップな雰囲気と異なり、みすぼらしい古いビルのタイル張りの個室だった。鏡には何も映っていない。


 スマホのインカメを見る。大きな目が赤くなっていた。


 僕は今人間じゃない。


 色素の薄い肌。通った鼻筋。ぷっくりとした唇。それを指で押し上げる。尖った犬歯が蛍光灯に反射した。吸血鬼たらしめる、最大の特徴。


 僕は今朝死んで、生き返って、また死んだ。


 何度も願っていたことが2回も叶った。


 それは想像よりも刺激的で、けど痛くなくて、気を抜くと実感すらないものだった。


 そんな僕を心配してくれるなんて。


 なんかこう、胸がチクチクする。


 痛いわけではない。けど、何か僕が僕でなくなるような、変な感覚がする。


 そんなことを思ってしまうのが嫌だ。


 善意を素直に受け止められないのが、死ぬほど嫌だ。


「嫌だ」


 壁にもたれかかってしゃがむ。背中のタイルが冷たい。


 しばらく放心していると、嫌な気配が全身に走った。ぞわりと肌が粟立つ。身に焼きごてを当てられているかのような、痛みを伴う感覚が広がっていく。


 その不愉快の正体を探して見回すと人の耳の塊が、トイレの奥に出現していた。


 耳の一つ一つが蠢く。


 まさしく奇怪。


 蠢く耳は僕めがけて飛びかかってきた。咄嗟に身体を捻って攻撃を交わす。べちょっとグロテスクな音が響く。耳はタイルに激突していた。


 状況を把握次第、すぐに距離をとった。耳は壁に激突してからしばらく鳥肌が立つような動きをしていた。


 僕はどうすればいいのかわからないまま、ただただ己の感覚のみを頼りに"耳"の全ての動作を警戒するしかできなかった。対してそれは何かを思考しているのか全く判別がつかないまま、身の毛もよだつ動きを続けている。


 何分経っただろうか。相手の次の行動を警戒しながら緊張の糸を限界まで突っ張らせていた。埒が開かない。そう悟り一歩退いた、その時だった。


「京ちゃん?」


 背後のドアに夏凛さんの声が響いた。耳はそれを合図にまた僕へ飛びかかってきた。一瞬声に意識が持っていかれたため、回避が遅くなり左手の人差し指が耳の餌食になってしまった。


 痛ッ――。


 瞬時に走る激痛。第一関節から先が齧られたように無くなった。


 耳はまた壁に激突し、酷い音を立てた。


「大丈夫? 京ちゃん、あけるよ?」


 ドアノブが捻られた。耳はそれを見逃さない。ゆっくり開かれるドアの隙間めがけて飛びかかった。僕は痛みに耐えながら、開かれるドアノブに突撃した。夏凛さんを説得している時間はないからだ。


 外開きの扉の隙間から覗いた彼女の身体を抱くように倒れ込む。そのわずか上を耳が通り過ぎて行った。べちょっと、何度も聞きたくない音がフロアに響いた。


 耳はエレベーターのドアに激突していた。若干血痕を散らしながら、蠢く耳の一つ一つに怒りがこもっていくような気がした。


 夏凛さんは呆然と僕を軽く抱きしめていた。何が起きたのか理解が遅れて、言葉を紡ぐのに時間がかかっている。


「あ、な、何? どうしたの京ちゃん?」


「こっち!」


 夏凛さんの手を取り、階段を駆け上がった。遅れて耳が突撃してきた。間一髪で攻撃を回避できた。


「京ちゃん!」テンパった声で夏凛さんが叫ぶ。振り返ると耳は階段の入り口でうねうねと気味の悪い動きを続けていた。心なしか最初に見た時より大きくなっている。


 気にしてなんかいられない。そう本能が判断し、階段を登ることだけに集中した。屋上に続くドアはすぐ目の前だ。


 耳が動くのを感じた。僕らめがけて飛んでくる。僕は驚くほど手際良くドアを開けた。開けて、夏凛さんを屋上へ引き込むとドアを閉めて抑えた。バコン。夜の秋葉原に響いた。


 手近に放置されていた錆びた鎖で扉を施錠する。これでやつは入ってこれない。


「……あの、京ちゃん」


 扉を封鎖する背に声をかけられる。


「今のは、何?」


「僕もよくわからないです。けど”混沌”って言うらしいです」


「混沌……」


「なんか、襲われちゃうんですよね」


 気まずくなりながらはにかんだ。自分でもなぜこんなに連続で被害に遭うのかわからない。どれだけ運が悪いのか。


「京ちゃんは、アレに追われているの?」


「そうですね。あ、けど会った時は違います。もっと個人的な感じで」


「ああ言うのと、戦っているの?」


「いや、逃げてます。というか戦い方わからなくて。知り合い、と言うか命の恩人がああ言うのを対峙する専門家で、昨日もそれに救われたと言うか」


 ――漂っていた安堵感を破壊したのは、今しがた施錠した扉だった。いや、安堵感だけでなく、それ自身も損壊している。


 ドンと言う衝撃音。ひしゃげた扉。縛り付けている鎖がギリギリ支えになっているが、小突いただけで倒れそうなほどにダメージを負っていた。


 夏凛さんの手を引き距離を取る。といっても4メートルもない。僕らは満足に後退することもできず、錆びついた低い鉄柵に背中をつけていた。


 緊張が走る。都会の喧騒より、自身の鼓動の音が大きい。


 扉が吹っ飛ばされたのが早かったか、僕の行動が早かったか。赤いサイレンを光らせる僕の本能は鉄柵の向こうを目指した。


「え??」


「多分大丈夫です多分」


――「多分伽藍屋ちゃんになったらできるんじゃない?」奇梓さんの言葉が脳内にリフレインする。多分ハイになっている。あんな些細な会話に縋るなんて。


 僕は夏凛さんをお姫様抱っこすると、低い鉄柵に足をかけ夜空に飛び出した。


踏み込みと共に外れる鉄柵とそこめがけて突っ込んでくる蠢く耳を尻目に、窮地からのエスケープを成し遂げたのだ。


 身体が浮く感覚は、ジェットコースターのそれと同じだった。内臓が抜き取られるような気持ち悪さと、遠心力で手足に血が集中してしまう感覚。けど、ジェットコースターと違うのは僕が意志を持って移動できるということだ。


 秋葉原の空は眩しかった。いや、地上が眩しいのか。ビルの屋根をホップステップジャンプで跨ぎながら、中央通りの賑わいを眼下に捉える。抱えている夏凛さんは震えながら僕にしがみついていた。


 夜風は若干生ぬるい。風が包み込むような感覚を感じながら、着地点のビルを蹴り上げる。再び浮き上がる感覚は癖になりそうだった。紛れもなくハイになっている。これほどまでに気持ちいのか。


「夏凛さん! すごい! 僕ら飛んでます!」


 全能感に酔いしれて、夏凛さんに声をかける。が、反応がない。意識を失っていた。濃縮された非日常に頭を撃ち抜かれたかのように、だらんとしていた。そりゃそうだ。いきなり耳に襲われ、そして都内の空を飛んだのだから。


 それから4度ほどビルを蹴飛ばして昌平橋の袂で降りたった。


 彼女を下ろした途端、僕は尻餅をついてしまった。膝が笑ってしまって力が入らないのだ。


 まさか本当に飛べるなんて。身体の動くままだったが、遅れて緊張が押し寄せる。


 身体中の血が沸騰しているように熱い。寝る前に感じた心地の良い破滅感がまた押し寄せている。


 おもむろにスマホのインカメを起動する。写っているのは僕ではない。美少女だった。


「あ、……え? 指!? 綺麗に治ってる!?」スマホを掴んでいる指先を見て叫んだ。


痛みを感じないのはアドレナリンの所為だと思っていたら、まさか綺麗に再生しているなんて。


 もう一度人間を辞めていることを実感した。


理由はわからない。けど、僕は夜に吸血鬼になるらしい。そのおかげで夏凛さんを助けられた。無意味な人生に意味を見出せた気がする。


 僕にしかできないこと。そんな思いを反芻していると、インカメの少女は恍惚な表情で笑っていた。


「こっちの方が、幸せだよな」


 独りごちながら、スマホを取り出す。神那岐さんとのチャットを開く。


『夜分、申し訳ありません。しばらく、お仕事お休みいただきます』


 そう打ち込んで、しばらく考える。このメッセージを送ったら二度と僕は元に戻れないはずだ。清水の舞台から飛び降りるのは勇気がいる。残された真っ当な人への羨望が奥歯の奥に残っていた。


 不意に持っていたスマホがバイブする。奇梓さん名前が表示されていた。


「もしもし」


「あ、京ちゃん。今朝ぶり」


「どうかなさいましたか?」


「いや、なんか”混沌”の空気を感じたから。大丈夫かなって」


 奇梓さんは軽いテンションで続ける。


「そこらへんにいるでしょ。”混沌”――」


 言葉に諭されて振り向いた先には、先ほどの蠢く耳がいた。

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