第2話

5

 眠りを妨げるバイブレーションが枕元から聞こえてくる。


 振動をたよりに、スマホを掴む。


 画面には神那岐と表示されていた。


 何かあったっけ? ふわふわした頭で神那岐さんからの電話の理由を探しながら、通話ボタンを押した。


「もしもし」


「あ、やっとつながった。伽藍屋くん、寝坊? 今日、これそう?」


 ああ、やってしまった。そうか、平日か。霞がかかった思考のまま、ぼんやりと状況を理解した。


「あ、はい。すみません。準備していきます」


「あ、そう? まあ、来れるならきて。ぜひとも。じゃあ、待ってるからね」


「はい、よろしくお願いいたします」


 脊髄から発せられる、「よろしくお願いいたします」を言い終えるころに、僕は通話を切っていた。画面を見ると13時。まあまあな遅刻だ。


 倦怠感がまとわりついた身体を起こす。ふわりと埃が舞ってカーテンのすき間から差し込む日差しが拡散した。


 何となく、部屋の雰囲気が違う気がした。


まだクリアじゃない頭で、そう思った。


僕はエンジンがかかるまで時間がかかる。朝が弱いのだ。


「んっ」


 足元の方で女性の声が聞こえた。


 寝返りとともにはだけたシーツから見えたのは透き通るような肌のお腹。


その奥には柔らかなふくらみがシーツに包まれている。


「がっ!」


 驚天動地。


いや、盛り過ぎかもしれない。


だが、貧相な語彙で今の僕のリアクションを表現する言葉を検索すると、この四字熟語がヒットした。


 驚きとともに脳内の霧が晴れていく。


昨日の夜のこと、"混沌"のこと、奇梓さんのこと、僕自身のこと。


夜のことが走馬灯のように大脳を駆け巡っていった。


 そうだ。


別に仕事しなくたっていいんだ。


僕は、吸血鬼になったんだから。


そうつぶやくと胸に巣食うドキドキが薄れていく。


顔を洗いに洗面所へ向かう。


向かった先の鏡に映っていたのは、しかしながら、幸薄そうな、仕事によって自信と希望を奪われた、弱者男性だった。


まぎれもない僕だった。


「どっちが、夢なんだ」


どくんと心臓がしたから打ち上げられた気がした。


 寝る前のあの衝撃的な出来事が夢だったのか、今のこれが噓なのか。


正直わからない。


 わざとらしく頬をつねってみる。


痛い。


古典的な夢の判定結果は陰性だった。


となるとやはり、夜の出来事なんて存在しない、という結論になる。


全ては弱者男性が作り出した虚構になる。


虚しく儚い僕の妄想。


もしかしたらそういう病気になっているのかもしれない。


混沌とか、女体化とか、吸血鬼化とか。


リアル過ぎる体験だ。


そして要素盛り過ぎ。


奇梓さんとか、実在しない人物を作り出して――


そこで僕は考えを止める。


奇梓さん。


血が凍るような美貌を持った女性。


おへそを出しながらソファベッドで寝ていた吸血鬼。


 急いで僕はベッドへ向かう。


居た。


見まごうことなく、そこに寝ている。


とても寝相がいいとは言えない格好で、寝息を立てている。


「あ、あの!!!」


 僕はテンパっている。


「なにぃ」


 むくりと奇梓さんは起きあがる。


「僕、もとに戻って!」


「何がぁ」


「だから、性別が!」


「性別ぅ~?」


 寝ぼけ眼をこすりながら、奇梓さんは注意深く僕を観察した。


「え……本当だ」


「これって、つまり吸血鬼じゃなくなったってことですか?」


「う~ん」


 顎に手を添えて考える奇梓さん。


「ああ~、もしかしたらアレかも」


「アレって」


「ん~、結構込み入った事情なんだけど、聴きたい?」


若干の茶目っ気を含ませながら、首をかしげて僕に問う。


もちろん、YESだ。


「ま、じゃあそこに座りなされ」


そういうテンションなのか、奇梓さんは戯曲チックに僕にベッドを促した。


いや、家主は僕なんだが。


「えっとね。まず、白状すると――」


 白状すると、私はヴァンパイアハーフなんだよ。


伽藍屋ちゃん。


いや、今だと伽藍屋くんって言った方がいい? 


うん、じゃあそうするね。


で、ヴァンパイアハーフってわかる? 


そう、吸血鬼と人間とのハーフ。


だから最初に名乗った時、ちょっとだけ嘘ついたことになるのかな。


まあ、気にしないでしょ?


私も気にしてないし。


それで、多分、伽藍屋くんが今人間に戻っているのは、そのことが関係している、気がする。


詳しくはママに聞いてみないとわからないんだけど、要するに半分吸血鬼の眷属だから、吸血鬼になる時間も半分、って感じ?


当てずっぽうな推理だけど。


メイビー、プーテートル。


え? そうだよ。


だから今は完全な人間。鏡にも映るだろうし、変身とか吸血とか空飛んだりとかできない。


ん? ああ、吸血鬼だったらできるよ。


多分伽藍屋になったらできるんじゃない?


今度練習しよ。


でもそっかぁ。今まで恥ずかしくて眷属作ったことなかったけど、私が作るとこうなっちゃうのか。


なんか大変だね。


でも、逆に考えると今度から事情を知ってる人間を吸血できるってことだよね?


そういう意味ではラッキーなのか。


え、いや。いいじゃん、ちょっとくらいさ。ご主人様に血を吸わせておくれよ。


君を救ってあげた命の恩人なんだから。


汝の意思の格率が、常に同時になんちゃらかんちゃらだよ。


誰に当てはめても問題ない善行だよ。吸血鬼に血を差し出すのは。


いや、そんな警戒しなくても。


吸血鬼だから生きていくためには人の血は必要だし、けど現代社会で問題起こさずに血を吸うなんて難易度が高いんだよ。


だから、大体は恋人になったり、契約書を結んでいるやつもいるけど、一度、無理やり血を吸おうとして警察呼ばれちゃった事件があったりね。


とにかく、お願い♡


……まあ、冗談はさておき、今は純度100%の人間だから。


むしろ伽藍屋くんにとっては運がいいかもしれないよ?


吸血鬼になった人間って、人の血を吸うことにすごい抵抗あるから。


そうだよ? そういうもんだよ?


だってさ、首筋とか手首とかに歯を突き立てて、噴き出した血を啜るなんて。


人間はしないでしょ?


いずれにせよ、伽藍屋くんは運がすごくいいんだよ。


不幸な部分ばかり気になってしまうかもだけど、実は幸運なことも道端に沢山転がってるもんなんだから、それを一つずつ気づかなくちゃね。



 たしかに、自分が血を吸うことを想像したら気持ち悪くなる。


だが、それを回避できたからと言って、彼女の言うような幸運に出くわしているのだろうか。


僕は完全な人間に戻った。それは奇梓さんの言う通りだろう。昨日と同じような野暮ったい憂鬱が胸に巣食っている。


であればこそ、決別できたはずの人生に、もう一度向き合わなければならない。


「つまり僕は仕事に行かなきゃいけないわけだ」


「ん?」


「人間だから」


「人間だから仕事に行かなければいけない道理なんてないと思うけどね」


「けど」


「最悪私のヒモになることだってできるよ。こう見えて、混沌退治はお金になるから」


 どこからお金が発生するんだろうか。にんまり顔の奇梓さんを見ながら当然の疑問に行きつく。


「ま、交換条件として毎日血を吸わせてもらうことだけどね」


「そ、それは嫌です!」


「ええ~、伽藍屋くんの血美味しいんだよ?」


「知りませんよ」


 首筋を射抜く視線に背筋が震える。


「ふふ、出るなら私も出るよ。連絡先を交換しておこうね」


「呼び出されても行かないですよ」


「別に血液パックとして呼び出すつもりはたぶん、おそらく、プーテートルないけどさ、まあ、ここは日本じゃん? だから、"縁"ってのは大事にしたいじゃん?」


「よくわからないですけど、まあ、いいですよ」


「ありがと。それとさ、行きたいなら行けばいいし、行きたくないならそうすればいいと私は思うよ。ただね、どっちを選んでも、選んだのは伽藍屋くんって事実は変わらないからね。生きるなら誰が自分の体を操縦しているかは理解しておいた方がいいよ」


6

 結局僕は会社に向かった。


もはや会社に向かうのは本能なんだろう。奇梓さんが出て行ったあと、スイッチが切り替わったように身支度をして家を出たのだ。


会社に着くと神那岐さんがひょうひょうとしながら、キーボードをたたいていた。


「あ、おはよう」


「すみません。遅れて」


「いいよいいよ。あ、チケット回しておいたから」


 淡々と、だが慌ただしく業務をこなす。今朝のこと、夜中のこと。全てが嘘のように感じてきた。


「再来月の月初のピックアップ、誰がいいと思う?」


 やっと形になりつつある年間計画表を眺めながら、神那岐さんが質問してきた


「ダンテ、ツァラトゥストラの流れだったので、スピノザとかどうですか? キャラのストックありますよね?」


「あるよ。けど、属性被らない?」


「あ~、じゃあライプニッツとか?」


「ライプニッツちゃんは残念ながらスパインが用意されてないんだよね、Live2Dはできてるけど」


「なんでスパインないんですか」


「そりゃあ、荒波場あらはばPがお気に召さなかったから」


 はあ、プロデューサーの鶴の一声で消し飛んだのか。猿田(さるた)さん、ドンマイ。


「無難にデカルトじゃない?」


「まあ、何でもいいと思います」


「あ、プロ失格」


「あ、すみません」


「ははは、別に怒ってないよ。こんなんじゃどうしても前向きな企画はできないよね。一応、デカルト仮fixで進行しておくから、前後の施策も合わせておいて」


 エナジードリンクを啜りながら、神那岐さんはそのままオフィスを出て行った。


 オフィスには僕一人になってしまった。テレワーク推奨の我が社で出社している人間は少ない。KAMINARIチームだと僕と神那岐さんしかいない。他のチームだと、週のうち何度か出社するメンツがいるようだが、今日は誰もいないらしい。


「前後の施策ねぇ」


 一人なのをいいことにボソボソつぶやきながら作業する。


癖なのだ。こうすると脳が捗る。気がする。


「無難に討伐クエストと、キャンペーンぶち込んでおけばいいかな」


 つぶやいて、先ほどの神那岐さんの「プロ失格」がリフレインした。


やっつけ仕事で、特に意図もなくて、説明する時だけ、それらしい意図を付け加える。それがプロなのだろうか。


お金をもらっているからプロであることには変わりないが、それにしたって、今の僕は中途半端過ぎる。


 クリエイターとしても半人前で、社会人としても半人前。そして、人間としても――


「え、誰?」


 後ろで神那岐さんが誰かと話している。


「どうかしましたか?」


「いや、え、あなた……」


 振り返ると、神那岐さんと目が合った。まんまるい目をしている。


「何言ってるんですか――」頭に響く高い声に背筋が冷えていく。


  とっさにPCの時計を見る。18時40分。もう夜と言っていい時間だ。


「ここ、普通の人は入れないんだけど。あと、そこ伽藍屋くんの席だし」


 言いながら神那岐さんはスマホを構えている。


通報する気らしい。


非常にまずい。


こんなことで警察のお世話になりたくない。


なったとして、事情をどう説明する?


無理だ、吸血鬼とか混沌とか、頭がおかしいと思われるだけだ。


となれば、やることは一つだ。


「あ、待て!」


 神那岐さんの制止を背中に聞きながらオフィスを出る。


鞄は置きっぱだ。けどスマホと社員証だけ持ってきている。十分だ。


 ビルの階段を転がるように降りる。


1階に降り立った時、実際に転びそうになったが何とか踏みとどまった。クロックスは走るのに向いていない。


上階から駆け下りてくる足音が響く。追ってきている。


ビルを飛び出し宵の秋葉原を疾走する。人影をよけ、あてもなくただ遠くを目指す。


幾度となく向けられるキャッチの声を躱しながら、末広町方面へ向かう裏道へたどり着いた。


一息入れるために、道端にしゃがみこんだ。


 こんな全力疾走したのは何年ぶりだろうか。


額にじっとり滲んだ汗を払いながらそんなことを思う。


 何か変なスイッチが入っている気がする。気分的にこんだけ走ったから疲れた感じがするが、身体が軽い。ハイになっているのだろうか。


そんなことを思いながら、しばらくアスファルトを見つめていると、視界の端に厚底と白いニーソが表れた。


「大丈夫?」


声の方を見上げるとメイドさんが心配そうに僕を見ていた。


「はい?」


「立てそう?」


 手を差し伸べて、彼女は寄り添うように言う。


「あ、ありがとうございます」


とりあえず手を握り伏し目がちでお礼を言う。


立ち上がった僕を見て、彼女の下がっていた眉尻は緊張を解いた。


「よかった!」


「逃げてたの、何かあった?」


 ああ。そうか。


 大の大人がこんな街中を疾走していたら何か事情があったと思うに違いない。


 いや、事情が無く走る人は滅多にいないか。


「あ、いえ。急いでいたので」


「にしては必至だったけど」


「よんどころ無い事情があるので!」


 相手は警察ではない。とはいえ、こんな境遇を話したところで信じてもらえるかどうかはわからない。


元々男で、会社の人にバレそうだから逃げてますって。正直ラノベの導入でも使わない設定だよな。さっさと適当なことを言って遠くへ逃げたい。神那岐さんが追ってきてないとも限らないし。


 夜風が汗を乾かすのを感じながらぼんやりと逃走手段を思い浮かべていた。だが、その皮算用をひっくり返す彼女だった。


「本当?」


 最初に見せた困り顔とは全く印象の違う真剣な目で見つめてくる。彼女のキリっとした目には、正義感が宿っていた。


「なんかあったら聞くよ。警察署も近くにあるし」


「えっと」


「私、夏凛かりん。名前聞いていい?」


「ぼ、私は……京です」


「いいじゃん、僕っ子。可愛いよ。私すぐそこのコンカフェでバイトしてるの。よかったら奢るから、ちょっと話そ?」


「い、いや、そういうわけには」


 な、なんだ? 結構ぐいぐい来るな。


「大丈夫、変なことしない。あ、これそういう風に聞こえるかもだけど本当だから」


 手を掴まれ、顔を寄せ、夏凛さんはまっすぐな目で言う。


「京ちゃんが心配なの」


 ポッケに入れていたスマホが震えた。

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