仕事ができない僕だから

煌﨑凛之介

第1話

1

 僕は病んでいる。非常に病んでいる。


目の前の仕事の多さに病んでいる。


かたずけてもかたずけても雨後の竹の子の様に湧いてくる地雷バグに亡殺されて病んでいる。


 前任のチームはどうしてこんな仕様にしたのだろう。


どうしてこうも運用しづらいマスター構造にしたのだろう。


ふつふつと湧いてくる疑問点はそれでも押し寄せるタスクに押し流されて、それをじっくり吟味する暇もなく消滅していく。


そんなことよりも、まずは運用体制を正常化しなければならない。


 我が弱小ゲーム開発会社は、とある独自IPのゲームを受託運営開発を受け持っている。


2ヵ月まえに受注した本プロジェクト――プロジェクトコード「KAMINARI」は、前任で大炎上の中まったく鎮火されることなく、我が社に運営移管がなされた。


前任の開発チームはもはや空中分解したとのうわさで、相当クライアントにやられたらしい。


そんな火を見るよりも明らかな、大きな爆弾をなぜ僕が処理しているのかと言えば、ノリの軽い我が社の代表、恩藤寺社長が半ばその場のノリでクライアントから案件を貰ってきたらしい。


 え? 会社が受託している理由は分かったが、なんで僕がアサインされたかって?


 ……僕は仕事ができない。


社会人経験3年。


この方まったく仕事ができたためしがない。


仕様もまともに切れない。


KPI分析も苦手。


おかげでいろいろなプロジェクトをたらい回しになった。


そんな僕が2ヵ月前に行きついたのがこのごうごうと燃え盛る篝火のようなプロジェクトだった。


まるで蛾になった気分だった。


それか煉獄で焼かれる罪人かのよう――もちろん罪状は無能罪だ。


2ヵ月の間に行えたのはマスター構造の理解だけだった。


どうしてこんな運用に向いていないマスターなのだろうか。


マスターの同時編集が行えないなんて不便すぎる。


データレコードも採番ルールがでたらめで、過去の施策仕様書とにらめっこしてもどれがどこに紐づいているのかまるでわからない。


 極めつけは先方のプロデューサーだ。


いや、先ほど仕事の多さに病んでいるといったが、本当はこのプロデューサーのせいで病んでいるのだ。


言っていることがわからないのだ。


いや、正確には日本語は話している。


だけれども、スケジュールや工数を度外視した指摘やFBを返してくる。


過去に握った仕様もひっくり返す。


運営を続けながら大規模アップデートの仕様を詰めようと試みたが、まったく要件定義が出来なかった。


穴を掘って埋める作業を課す拷問があるというが、彼との対話はまさしくそのような拷問だった。


「あ、バグみっけ」


 隣の席から神那岐かんなぎさんの不穏なつぶやきが聞こえた。


「後にしましょう」


「ダメでしょ。アイテム詳細の表示が狂ってるんだよ? ショップに飛んで帰ってくると直前に開いていたアイテム詳細しか表示されない」


「……なんでそんなのがまだ残ってるんですか」


「悲しいね。QAも見つけてくれないなんて」


 カカカっと笑いながら神那岐さんはエナジードリンクをすすった。


「とりあえずチケット起票して芦陀あしださんに渡しておくよ。続きは明日にしようかしら」


「おつかれさまです……」


「どうしたの、元気ないね。寂しいの?」


「いえ……疲れてるだけです」


「そう。伽藍屋がらやくんも無理しないようにね。潰れる直前って感じがするよ。そういう時は一度リセットして、頭をスッキリさせた方がよいぞ」


 ベテランからのアドバイスを残すと、そそくさと神那岐さんはオフィスを後にした。


 時計の表示は23時30分。


弱小ゲーム会社の狭いオフィスには僕だけだった。


節電のために僕のデスクのもとだけ明かりがついている。


それ以外は闇だった。


まるで世界からここだけ切り取られたかのようだった。


僕は孤独を感じた。独りきりだった。


いつからだろうか、何でもないような現実に心が耐えられなくなる時がある。


仕様の相談をした時に相手の反応が悪かった時。


おそらく僕であろう噂話を聞いた時。


提出した資料のミスを指摘された時。


何でもないようなことが、何とも僕の心を蝕んでいく。


僕の何かが損なわれていく。


「もう無理だ……」


 多分、「仕事が」だ。


「人生が」ではない。はずだ。


正直、どっちともとれるつぶやきだった。


言った僕もあやふやだった。


そんなあやふやな存在だから、昨日と今日の狭間のあやふやな時間だったから、僕はあんなことに巻き込まれたのかもしれない。


仕事ができない僕だから、人生あんなことになってしまったのかもしれない。


2

 23時58分。


あと2分で明日になる。


2分後には昨日になる。


そんな時間、僕は深夜の秋葉原を歩いていた。


終わらない仕事の数々に迫られながら、しかし逃げるように打刻し、オフィスを後にした。


昼間は盛んなメイドたちのキャッチだが、感染症が流行ってからというもの夜はおとなしくなっている。


おかげで歩きやすいが、ギラギラと輝いていた以前とはことなり、夜も更けると静まり返ってしまう。


中央通りから外れた、我が弱小ゲーム会社が位置する区画はこの時間になるともう誰も歩いていない。


僕は一人で夜道を歩くのが好きだ。


昼間の、できない自分をまざまざと見せつけられる拷問のような業務時間と異なり、僕しかいない夜道は誰とも比較されることはない。


この世界は僕しかいないのだ。


そんな唯一の心の拠り所のような時間だから、延長したくなる気持ちもわかるだろう。


賃貸のある浅草橋まではまだ余裕で電車があるが、この時間を終わらせたくないがために、僕は歩いて帰るのだった。


昭和通を過ぎて、総武線沿いに歩を進める。


たまに通る電車の音を頭上に聞きながら、夜道を進んでいると、僕の人生の転機が訪れた。


いや、降ってきた。


 脳が状況を理解するのに、しばらく時間を要した。


というのも、生まれてこの方人が空から降ってくるなんて、初めてだったからだ。


それも普通に降ってきたのではない。


しっかりと着地を決めている。


片膝をついて、片手をついて、中二病さながらのかっこいいポーズで目の前に鎮座している。


――ドレスのようなスーツのような、雰囲気のある高そうな衣装を身にまとった彼女は、アスファルトに着地した刹那、そのシャンパンゴールドの髪のすき間から、気の遠くなるような美しい瞳をのぞかせて、僕を射抜いた。


 きっと理解するのに時間がかかったのは、まぎれもないその美貌に息をのんでいたために違いない。


「美しい」という言葉は彼女のためにあるのだろうと言っても過言でないほど、目の前に存在する女性は儚く、そして綺麗だった。


「お前、見たな」


 つぶやかれる言葉は背筋が凍るほど冷たかった。


美しいのに何かおぞましい、命が脅かされる気さえする恐怖を感じた。


「ご、ごめんなさい……」


 ちゃんと言えていたのか怪しい。


言葉と息が同時に出ていた。


喋り方が変になっていた。


それだけ、僕の動物としての本能が、けたたましくアラートを上げていた。


 この女は、危険だ。


そう頭の中で結論づけた瞬間、雷に打たれたかのように身体が反応した。


踵を返し、元来た道へ帰ろうとした。


だが、振り返ってまもなく、またしても僕は固まってしまった。


 そこにいたのは闇だった。


いや、正確には違う。


夜よりも暗い、切り取ったかのような闇が目の前の路地に横たわっていた。


よく目を凝らすと、ただの闇ではなく、何かが表面をうごめいている。


そして、無数の目玉があたり一面をまるで餌を探すかのようにぎょろついている。


やがて目玉は僕をとらえると一斉に僕に焦点を合わせた。


暗闇だった箇所から黄ばんだ大きな歯をのぞかせた。


闇よりも深い、深淵がその奥にあった。


僕は深淵に飲まれた。


3

「やっと起きた」


 目が覚めると、絶世の美女が僕を見下ろしていた。


「よかった」


 氷が解けたかのようにはにかんだその顔からは、先ほどの剣呑な雰囲気は感じなかった。


「動ける? もう少し寝てていいから」


 言われて僕は彼女に膝枕されていることに気付いた。


そして、上半身が裸のことも。


いや、彼女のは追っていた上着をかけてもらっているが、どうもスースーする。


「あ、あなたは」


 自分の声に違和感があった。


普段の華のない低い声が頭に響かず、可憐で繊細な高い声が口からこぼれていた。


「私は奇梓きしメア。そして――吸血鬼」


 くしゃっと笑った、その口元から鋭い犬歯がうかがえた。


「あと、あなたのご主人様」


「はあ?」


 聞きなれない声で間の抜けた返事をする。


ご主人様? 残念だけど僕はそんな趣味はない。それにSかMかと言われれば、Sだと思っている。


責められるのは苦手だ。


仕事も、セックスも。


「ああ、そうか。頭から丸かじりされていたから覚えてないよね。ごめんなさい。えっと、さっきの"混沌"にあなたは食べられたの。で、それを私が助けた」


 ――血を吸って。


 奇梓さんの話はまるで現実感が無かった。


最後の言葉を除いて。


確かめたわけではない。


だが、僕は血を吸われたと、直感した。


目の前の吸血鬼に。


「あ、あのじゃあ、それで僕は吸血鬼になったんですか?」


「うん、もちろん。おめでとう。そして、ご愁傷様」


「えっと……よくわからないです」


「まあ、最初はそうらしいから」


 空虚で軽い返事は誰にも受け取られずに公園の砂利に落ちた。


奇梓さんは小首をかしげながら僕を見下ろしている。


見上げていると目があってしまう。


非常に気まずい。


いや、思えば、女性に、それも外で膝枕されているという状況もどうも決まりが悪い。


深夜だからまだしも、真昼間だったら公園で遊ぶ子供たちの注目の的になっていただろう。


「じゃ、じゃあ僕はこれで」


 この空間から逃げるように、僕は体勢を起こした。


焦っていたから、かぶせてもらっていた上着はと砂利に落ちる。


申し訳ないと思い足元に目をやると、いつもより視界が狭まっている。


いや、正確には下を見るときに邪魔になるものがあった。


色素の薄い、透明感のある膨れた肌がそこにはあった。


本来、男の僕には存在しえない、女性らしさを詰め込んだ乳房が、夜の公園にあらわになっていた。


「え……?」


 えええええええええええええええええええええええええええええ!?


なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで??????


 どうして、どうして僕に、こんなものが。


「ああ、大丈夫?」


「あ、あの、なんで僕は」


「だから言ったじゃん、吸血鬼になったって」


「でも、それとこれとは」


 戸惑う声も高い。先ほどからの違和感が具体化していく。急いでスマホを取り出す。インカメにして自分の姿を確認する。


 画面に映し出されたのは僕ではなかった。まったくなじみのない、可愛らしい女の子だった。


「なんで、女に」


「吸血鬼化の影響って感じかな。吸血鬼が血を吸って眷属を作ると、眷属は性別が変わっちゃうんだよね。なんか、呪いらしい」


 画面の中の女の子に寄り添うように、奇梓さんが顔をのぞかせた。


「ま、だからご愁傷様」


4

「じゃあ、その"混沌"というやつを追ってここまで?」


「そう。本当は御茶ノ水あたりでトドメさせそうだったんだけど、あそこだと力弱っちゃうから、取り逃しちゃった」


「弱まる?」


「教会あるでしょ?」


 ああ、なるほど。


「だから、こっちまで来ちゃった。おかげで伽藍屋の人生も台無しになっちゃった」


「あの、伽藍屋ちゃんって」


「え? 嫌だった? けいちゃんって呼んだ方がいい?」


「うっ……」


 久しぶりに下の名前で呼ばれた。むず痒い。


「伽藍屋でいいです。"ちゃん"もいらないです」


「わかった。伽藍屋ちゃん」


そういう性格の人か。


「ま、まあ。助けてくださりありがとうございます。改めて、お礼を言います」


「いやいや、私の落ち度でもあるか」


「それでなんですが、僕はどうやったらもとに戻りますか?」


「え?」


「明日も仕事があって。……行きたくないけど、行かないといけないし。このままだったら、さすがに」


「無理だよ」


 無機質に発せられた言葉はあまりにも自然過ぎて、一瞬聞き逃しそうになった。


「無理って、何が」


「吸血鬼になったら、元に戻らない。吸血鬼伝説知らない? 吸血鬼から人間に戻る方法はないよ」


「ないって、無いって困ります。じゃあ、僕はこれからどうすれば」


「うーん、そういう意味でご愁傷様ってことだったんだけど」


「どうしたらいいんだ……」


 これじゃあ、僕は死んだも同然じゃないか。


生き返ったというより、輪廻転生だ。


 いや、そうか。


逆にこれでいいんだ。


これで。


とうに僕は人の道を歩んでいなかった。


弱弱しくて、卑しくて。


仕事のストレスで、自分で自分を認められなくて、うつ病とも、適応障害とも診断はされない、ギリギリの健康体で、でもあとちょっとで墜落するような低空飛行。


そんな生活を続けるより、吸血鬼として生きる方が、よっぽど気持ちいいじゃないか。


よっぽど、楽じゃないか。


「ま、安心しなって。ちゃんと面倒は見るよ。初めての眷属だけど、何とかするよ。はぁ~あ」


 大きなあくびをして会話を区切る奇梓さん。曰く活動限界らしい。


吸血鬼の主戦場は夜だ。日没とともに活性化し、夜明けとともに眠る。


東の空が白み始めているこの時分、吸血鬼は営業終了だそうだ。


「悪いんだけどさ、家泊めてくれない?」


「え、嫌です」


「なんで、命の恩人なのに」


「だってその、人を招く状態ではないというか」


「大丈夫大丈夫、同じ吸血鬼なんだから伽藍屋ちゃんに襲われる心配はないよ」


「いや、そうじゃなくて、部屋の状態が」


「ん? ああ、そっちも大丈夫。私の家も人に引かれるくらい汚いから」


 とろんとした顔で口角を上げて言う。


いや、そういう問題ではないのだが。


服も脱ぎっぱなしだっただろうし、テーブルの上も空き缶だらけだったはずだし、とても家に上げられない。


「いや、あの、それに一人暮らしの男の家に、女の子が来るなんてのも」


「いやいや、伽藍屋ちゃんは今女の子でしょ」


 いうや否や、奇梓さんは僕の胸を揉んだ。


「な、何するんですか!」


もみもみ。


「え、忘れちゃってたのかなって」


モミモミ。


「わ、忘れてないですって」


むにむに。


「そっか、じゃあよかった。同じ女の子どうしだから、泊まるのは問題ないよね」


たゆんたゆん。


「いつまで揉んでるんですかっ!!!!!」


 結局、奇梓さんを泊めることにした。


断っても食い下がられ続けたから、というのもあるが、本当に冗談抜きで活動限界を迎えていたらしい。


「……つきましたよ」


「うん、ありがとう」


 玄関ドアの前まで着くころには、奇梓さんは僕に身を預ける形になっていた。


空は先ほどよりも朝の色に染まっている。


 鍵を開けて中に入る。


我ながら散らかっている。


恥ずかしいと思いながら奇梓さんを見やるが、彼女は意に介した様子もなかった。


我が物顔で廊下を進み、もうしばらくソファモードにしていないソファベッドに突っ伏した。


あの、下着とか部屋着とかがっつり踏んづけていかれたんですが。


まあ、脱ぎ散らかしていた僕が悪いんだけど。


 寝息を立てる奇梓さんを見ながら、僕は先ほどまでの出来事を反芻していた。


いつも通りの絶望色の仕事を終えたあと、いつも通りに家まで歩いて帰っていたら、いつもと違って彼女に出会った。


僕は吸血鬼になって、女の子になって、もう後には戻れなくなった。


やっと人生を踏み外せた。


空き缶の中心にあるノートを手に取る。


開かれていたページを切り取って、ビリビリに破いてトイレに捨てた。


「さようなら」という言葉が揉まめれながら流れていった。


コレを書いている時の僕と、今の僕とでは別人だ。


何かをやり直したいわけではないけど、やっと終わらせられた。


「あ……」


 トイレ横の洗面台の鏡を見たら何も映っていなかった。


そうか、吸血鬼は鏡に映らないんだっけ。


スマホのインカメを起動する。


可憐な女の子が映っている。


画面の中の自分と目を合わせながら、僕の人生が変わった事実を噛みしめていた。


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