第17話 ももしお、文転するんだってよ



 月曜の朝、ミナトは自ら、京を含める5人のグループチャットに書き込んだ。


『赤テスラがマンションの駐車場にある。

 横浜ナンバー。

 監視カメラがあるから怪しい行動は不可』


 報告しつつも、ももしお×ねぎまに「いらんことすんな」と暗に釘を刺している。

 みなとみらいという場所がら、マンションは賃貸物件としての需要が高く、部屋のオーナーと使用者は必ずしも一致しない。が、なんと、「背が高くて綺麗な男の人が管理組合の会合に来る」と分かった。

 

 さあ、ももしお×ねぎまはどう出るか。





 


 まことしやかに囁かれる噂は当初、文系男子のものだった。



「ももしお、文転するんだってよ」



 高2の今現在、ももしおは理系クラスにいる。我が校では、高1の11月に理系か文系か進路希望を出し、高2で理系と文系に分かれる。通常、高2、高3はそのまま。僅かではあるが、高3のときに変更する者がいる。学年に1名、いるかどうか。理系から文系に移ることが文転。


 ももしおは高3から、ひときわ華やかな私立文系クラスだろうか、はたまた知的クール女史の多い国立文系クラスだろうかというところまで盛り上がっている。


 文系男子の多くは浮足立ち、或る者は黒縁メガネをコンタクトに変え、また或る者は美容院へ行ったらしい。

 一方、理系男子は……



「宗哲、マジでホント?」


「オレ、3年んなったら、ももしおと一緒のクラスになれるかもって思ってたのに、その望み絶たれる?」


「文転を阻止してくれ。頼む」



 クラスの飯友3人がオレに向かって手を合わせる。このうち1人は相模ン。

 頼まれても困る。人の言うことなんて聞くようなヤツじゃないから。



「同じクラスにももしおいたら、オレ、偏差値5は上がっし」

「んだんだー。清らかーな横顔あったら頑張れる」


「前後席でプリント渡すってゆーオレの野望がっ」



 野望、ささやか過ぎるだろ。


 噂は一人歩きし、競歩からマラソンへ速度アップした。



「ももしお、文系クラスの女子と喋ってた」

「本屋で文系の赤本を見てたぞ!」

「インスタに。嗚呼。『文ちゃん転ぶ』って。文転」



 取り敢えずツッコませてもらおう。1年のときの友達、部活、委員会など、理系クラスであっても文系クラスに友達がいるのは普通。本屋に平積みしてあった文系の赤本を視界に入れたくらいで見るとは言わない。インスタにあったのは脱げたローファー。ももしおの友達の文音あやね、通称「あやちゃん」のもの。文ちゃんが転んだだけ。



「「「頼む、宗哲。ねぎまになんとかしてもらってくれっ」」」



 飯友3人ははなからオレなんてアテにしていない。

 こいつらはオレの向こうにいるねぎまの力を期待しているのだ。


 ももしおが文転―――どう考えてもおかしい。


 ももしおの文系科目は壊滅的。

 世界史の教科書&資料集の人物には例外なくヒゲを描き、「源氏物語」をロリコンとほざく。英語は毎回赤点ギリギリ。そんなヤツが文転できようはずがない。だいたい、一般常識にやや不安のあるももしおが、世話係のねぎまから離れるなんて。ありえん。


 一応、確認してみるか。


『ももしお、文転するってホント?』




 放課後、横浜駅東口からSOGOを抜けてかもめ歩道橋をだらだらと渡る。

 体育の授業で汗を流した後、カノジョに会うからデオドラントシートで汗を拭き、歯も磨いた。髪もワックスでちょっとカッコつけた。どんなときも努力を惜しまない。


 が。隣でダルそうに歩く男は努力もせず、恵まれた容姿の上にあぐらをかいている。格差。

 長身。並ぶと脚の長さが違いすぎる。風に吹かれただけで整ってしまう軽くウエーブしたゆるふわヘア。長い指が汗で額に張り付いた前髪を払っただけで、近くを歩く女性達の視線を集める。イケメンってだけで汗かいても爽やかに見えるの、ずりぃ。


 本日水曜。全校一斉、部活のない日。


 ミナトは恐れていた。月曜の朝、マンションに赤テスラがあることを報告したというのに動きがないから。モラリストミナトは、マンションのコンシェルジュから注意される覚悟をしていた。しかし、マンション付近でももしお×ねぎまを見かけることはなかった。京を含めた5人のグループチャットには『了解』とか『教えてくれてありがとう』の返信のみ。おかしい。

 更には、ももしおの文転の噂が流れている。



「宗哲、オレ、なんかの間違いだと思うわー。文転」



 ミナトはオレと同じ意見だった。



「だよな」



 待ち合わせたパン屋で1番腹の足しになりそうなパンを買った。

 店内は静か。ももしお×ねぎまはまだ到着していないのだろう。女子高生はテンションが高い。特にあの2人は。


 だが予想に反して、イートインスペースにはももしお×ねぎまがいた。

 え?!

 静かということに驚く。更には2人が勉学に勤しんでいる。近づくと、なんと、ももしおが広げているのは英文法の参考書。


 窓の外は新田間川。夕暮れから夜へ変わる街が水面にきらきらと映し出されている。店内には愛を語り合うカップルたちが平和にリアルを充実させている。2人がいるのに店内の雰囲気が損なわれてないって、どゆこと? いつもだったら身のない会話と高らかな笑い声が店内に響き渡っているというのに。テスト前でもない。追試発表があったわけでもない。なのに勉強。

 

 ミナトを見ると、眉間に皺を寄せ、訝し気な顔になっている。



「「お待たせ」」



 ミナトと2人、静かにテーブルにトレイを置いて着席。



「あ、ミナト君、宗哲クン」



 世界地理の参考書に赤シートを置いて、紙に答えを書きなぐっていたねぎまが手を止めた。



「うっす」



 ももしおは目を英文法の参考書にやったまま短く挨拶。ガリガリと音を立てるように勉強し、ときおり左手でトレイに山のように載っているパンを齧る。


 水で口を湿らせてから、オレは単刀直入に聞いた。



「ももしお、マジで文転すんの?」



 やっと顔を上げたももしおは、黒縁メガネを指で押さえた。顔が小さいからなのか見慣れていないだけなのかメガネが異様な存在感を放つ。



「うん」



 肯定。ウソだろ?



「いや、ムリゲーじゃん?

 ももしおって、文系科目死んでね?

 逆に、物理と数学、勿体なくね?」



 ももしおは、物理と数学が学年順位1ケタ。

 オレの考えたことはすでに教師陣も考えたことだったらしい。ねぎまは眉をハの字にして、タレ目を更に垂らして困った顔。



「私ね、物理と数学と担任のセンセーに『百田さんの文転を止めて下さい』って頼まれちゃった」



 教師陣までねぎまに頼ったのか。生徒に頼まず、自分で説得しろよ。



「え、マイマイ、そんなこと言われたの?」



 ももしおは初耳だったらしい。



「シオリンの人生はシオリンのものだから。そんなのどーでもいーって」


「マイマイ、ありがと。私、がんばる」


「うん、シオリン。がんばろ、ね」


「ね」



 ももしお×ねぎまは友情を確認し合い、お互いに顔を見合わせて首をこてっと傾けた。



「ももしおちゃん、突然どした?」



 ミナトは優しく疑問を投げかけた。



「将来のことを考えた結果なの」



 ももしおはメガネを外し、清らかなまなこをオレたちに向けた。澄んだ瞳は一転の曇りもなく、美しい未来を見つめている。


 将来か。オレの将来の夢は愛する人と幸せな毎日を送ること。仕事はそれを守る糧を得るためのものでしかない。ねぎまと一つ屋根の下に暮らす生活を思い浮かべながらちらっとねぎまに視線を送った。きっと一緒のことを考えているだろう。人は鏡のように相手を想うと聞く。だったら。

 あ、れ?


 ねぎまはスマホに目を落としている。将来よりも今。



「あ、また更新されてる」



 独り言まで零す。



「何が更新?」



 オレの質問に、ねぎまはさっとスマホをサインアウトした。



「そろそろ#横浜イケメンの締切だから」



 なにやらごまかそうとしている。強張った笑顔の中で泳ぐ目。

 ももしおはイタズラな視線をねぎまに送り、桜貝のような口を開いた。



「気になるよね、マイマイ。でも志を持った私にとってそんなことはどうでもいいの。#横浜イケメンも、『クールに言葉攻めを受けたい』とか『反応が楽しめそう』とか『意外にワンパターンじゃないか』とかなんてコメントもどうでもいい」



 いやそれ、コメント全部チェックしてるってことじゃん。

 ももしおはテーブルに手をついて立ち上がった。



「これからの日本経済を考える。それが私の生きる道」



 はい?



「ももしおちゃん、いつもながら突飛だね」



 ミナトも呆れている。

 オレたち高校生に全く関係のない問題。小遣いが十分なら日本経済なんてどーでもよー。



「少子高齢化。資源高。物価上昇。企業業績悪化。もう何年も前から日本は暗闇の中を彷徨ってる。住民税、所得税、社会保険料、介護保険料、国民に課せられる税金は、年収によっては江戸時代の4公6民よりも重い。公共料金は高騰。年金は減少。生きる希望がない中で、先進医療により死ねない最長寿国」

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