最終章 あの春、再び

Last Mov. 彼女と僕

「プログラムナンバー41番 野田拓人さん。演奏はブルグミュラー作曲 25の練習曲 2番 アラベスク。同じくブルグミュラー作曲 25の練習曲 15番 バラード」


 会場に響くアナウンス。優しく若々しい女性の声が、次の演奏者の紹介をしている。


 それは先生の声。そして僕の出番を告げるアナウンス。

 マイクのスイッチを切った先生が小さな声で「頑張って!」と応援してくれた。

 ガッツポーズまで小さくなってて可愛い。



 舞台袖から見える景色。僕は知っている。


 半年前と同じ会場。たぶんピアノも同じ。

 自分にだけに向けられた拍手が、心臓に響く。

 僕の心臓は負けず嫌いで、その拍手より早く脈打つ。


 僕の意思を無視して勝手に跳ね回る心臓。

 コイツは勝手気ままに速いテンポを刻んでいる。


 まったく、そんなテンポはクラッシックに相応しくないのに。

 騒がしいのは構わないけど、演奏の邪魔だけはしてくれるなよ。

 聞く耳を持たないコイツに言葉を投げかけてしまうのは現実逃避だろうか。


 少しでも落ち着くように、ゆっくりと歩き出す。

 舞台袖から真っ平らな舞台を歩いているのに、床が波打っている。

 それはまさしく錯覚だけれども、そう思ってしまうくらいに足がもつれそうになる。


 こればっかりは変わんないなぁ。ビビリの自分に諦めに近い感情が湧く。

 まるで出来の悪い弟を見てるみたいだ。



 やっとのことで舞台中央まで進んでから観客席へ頭を下げる。

 見える景色も同じだ。見守ってくれている面子も同じ。

 緊張は……まだまだしているな。


 そりゃそうだ。いくら練習してきたとはいえ、本番なんだもの。


 駅や街中に置いてあるストリートピアノで勝手に弾くのとは訳が違う。ここには、僕のピアノを聴こうとしている人たちだけ。


 観客席から目を切り、ピアノに向かって進む。

 一歩、一歩。歩みと共に本番が近づく。


 フルコンサートサイズの大きなグランドピアノ。明かりに照らされて艶やかに輝く。きっと僕には勿体無いくらいに良い音を出せるんだろうな、君は。


 今日、僕の相棒となる君。半年前も君だったのかな。あの時は、君のことを考える余裕も無かったよ。あれからしっかり練習してきたから、きっと上手くいくと思う。だから今日は頼んだよ。


 神頼みならぬピアノ頼みを済ませ、椅子に腰掛ける。自然と鍵盤との距離を測って椅子を調整する。いつもと同じだと思ったけど、ちょっと遠いかもしれない。


 ――上手く鍵盤に力をかけられなかったらどうしよう……。


 杞憂に近い心配が頭をよぎる。

 この一年、ずっとピアノに向かい合ってきた。自然に取った距離がピッタリなはず。余計なことは考えず、演奏を始めよう。


 まずは因縁の『アラベスク』。たった楽譜1ページの曲。

 それほどに短い曲なのにあれだけ苦労したんだ。半年前は余裕なんてものは無くて、手は震えるし、頭は真っ白だったのに。不思議なもので満足に弾けるようになると、途端に簡単な曲に思える。


 ――出だしさえ、ちゃんと音が出れば大丈夫なはず。


 いくぞ。すぅっと鼻で息を吸い、肘先に力を込める。


 左手の和音で始まる前奏4音。軽く、音を揃えて。

 次いでメロディ。右手で奏でる音階が小気味良く駆け上がる。


 左手の和音を入れ替え雰囲気を変える。そして左手もメロディに移行する。



 弾けてる。ちゃんと間違えずに弾けてる。

 けど、ちゃんと僕なりの『アラベスク』になってるか?


 何となく、そうじゃない気がしてしまう。奏でる音が平坦になってしまっているような気がしてならない。


 何度となく、言われてきた結先生の言葉を思い出す。

 楽譜の通りに弾いただけじゃ弾けるうちに入らない。君なりの解釈で、君の音で、表現できるようになって、やっと弾けるって言うんだよって。



 いつもの癖で間違いなく上手に弾こうと思いすぎるあまり、僕らしく弾けてなかったかも知れない。


 短い曲の『アラベスク』は、あっという間に終わってしまった。


 立て直すことも出来ずに。



 引き終わりの余韻に浸り、鍵盤から手を離す。


 ゆっくりと開く瞼。

 やりきったという感情より終わってしまったという気持ちが強い。


 もっと上手くできた気がする。抑揚をつけてメリハリを利かせて……。

 反省しだすと止まらない。

 ふいに息苦しさを感じて普段より上に上がっているネクタイの結び目に指を掛けた。


 制服のネクタイとは違った滑らかな手触り。

 今日のために用意されたネクタイ。彼女からのプレゼント。


 自然と彼女の顔が浮かんでくる。

 これじゃいけないな。もう次が最後の曲だ。


 演奏会も最後。

 必死にピアノに打ち込むのも最後。

 これが終わったら受験にシフトしなければならない。


 悔いのない演奏をしないと。


 彼女の演奏に心を動かされて始めたピアノ。

 高一で始めてプロになんてなれないのは分かってる。それでも彼女のように人の心を揺さぶる演奏をしてみたかった。ひたむきに何かに取り組んで、それが人の心を動かせたのなら。美しく、格好良かった彼女のように。


 あの時の彼女の演奏は、まるでイタズラ好きな兎が鍵盤の上で踊るようだった。時折、強く踏みつけて、大きな音を出したりしていたが、常に楽しそうにしていたっけ。八十八の鍵盤の海で踊る兎は、僕には出せない音を奏でる。


 鍵盤の上の兎は跳んで、跳ねて、軽やかに舞い上がる。

 あれだけ気ままに動いているようなのに、飛び出てくる音はどれもが美しく、楽しい。

 彼女のピアノには、そう思わせる明るさがあった。僕はそれに憧れたんだ。


 同年代の子が、真剣に取り組んで築き上げた技術。何でもかんでも、ほどほどの僕にとって眩しすぎて強烈に惹かれた。


 何故かって、その理由はうまく説明できないけども、僕も本気で頑張ったら、あっち側に立てるんじゃないか。そう思ってしまったんだ。


 それから必死に頑張って一年。

 最後の曲はショパンじゃなくてブルグミュラー。先生の言う自分なりの解釈と表現。それを実現するには、ショパンは難しすぎた。


 僕だって、今ならショパンの簡単な曲なら譜面通りには弾けると思う。でも、誰かの心を動かすほどに曲に力を与えることはできないだろう。彼女のショパンのように。


 だから僕はブルグミュラー。僕にとって簡単じゃなかったけど、僕なりに理解を深めたブルグミュラーの『バラード』。


 近くにいる君にも。

 観客席にいる彼らにも。

 届くかな。届くと良いな。


 君に憧れて始めたピアノ。

 始めてから目的は変わってきたけど、君への想いは強くなった。

 こんな風に変わるなんて思いもよらなかった。

 でも僕は幸せだ。


 中野と神田さんと紬。

 僕の人生は彼らと出会って色付いたのだから。



 息を整える。さあ始めようか。

 僕なりの演奏を。


 重く低いメロディ。『アラベスク』と違って左手でメロディラインを奏でる。

 始まりの暗く重苦しい響きから一転、明るく軽やかな曲に表情を変える。


 ここからは右手が主旋律。左手の和音が心地良い。

 考えなくても手が自然と動いていく。


 頭に浮かぶのは、この一年の高校生活の思い出。

 偶然に出会ったピアノ。ちょっとだけ上手くなって失敗して。彼女とも仲良くなったし、彼らとも仲良くなった。


 プールも行ったっけ。

 彼女と一緒に勉強したのも、その頃だったな。

 いつから彼女を意識するようになったんだろう。


 まあいいか。今は間違いなく好きなんだから。その気持ちもピアノで伝わるかな。

 でも彼女なら、「そう言うことはちゃんと口で言って欲しいな」って言いそうだ。

 想像してしまったら、勝手に頰が緩む。


 だけど、それはピアノで伝えるよりも簡単で難しい。

 音楽って凄いんだね。楽しいも悲しいも音で表現できる。言葉が通じない相手にだって届くんだよ。

 国が違ったって、人種が違ったって。


 僕の演奏じゃ頼りないけど君の演奏なら必ず届く。きっと。


 ああ、僕の演奏より君の演奏が聴きたくなってきたな。

 もう僕の演奏は終わる。次は大トリの君の演奏だ。


 きっと去年の僕みたいに心を鷲掴みにされる人を生み出すんだろうな。


 だって、君の奏でる音は、鍵の海で踊り遊ぶ兎のように、呆れるくらいに楽し気なのだから。



 鍵の海で踊る兎 -跳ねる音色の行く末は- 《了》


−−−−−−−−−−


全50話お読みいただき、ありがとうございました。

第一話と最終話は、ほぼ同じ内容になっています。同じ内容でも、主人公の野田拓人くんが苦しみながらも頑張る姿を通して、最終話の感じ方が変わっていってくれれば良いなという思いで構成しました。


最後に改めまして、ありがとうございました。


こちらの作品はカクヨムコン9参加作品です。

ご評価がまだの方は、是非よろしくお願いします。おそらく、本作は読者選考のボーダーの下あたりにいる感じです。


皆様の作品フォローや★評価でボーダーを超えられるかもしれません。何卒よろしくお願いしますm(_ _)m

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君と英雄ポロネーズ -鍵の海で踊る兎- 裏耕記 @rikouki

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