49th Mov. 今までとこれから
既に部屋の一部となっている電子ピアノの鍵盤を押す。
だけど、いつもの綺麗な音は出ず、カタンカタンという音しか出ない。
電源の入っていない電子ピアノはピアノでもなくて、その鍵盤は鍵盤の役割を果たせていない。
まるで今の僕みたい。
ピアノは弾けるけどピアニストというには程遠くて、鍵盤は押せるけど人の心を動かせるほどの腕前じゃない。
僕は何者でもなくて、何者にもなれなさそう。
今も、これからも。
※
気持ちというものは、本人にもどうにもならない。自分の中で結論を出したと思い込んでも、質の悪い風邪のようにぶり返すらしい。
彼女のようになりたくて。
彼女の側に立ちたくて。
そんな不純な気持ちで始めたピアノ。
習い始めてからは、その気持ちが少し変化したけれど、それでも根っこの部分は変わらない。
ある意味では強くなった気がする。彼女を知れば知るほど。
そして彼女と時間を過ごせば過ごすほどに。
だけどその理由を伝える気にはなれない。
今はまだ隣にすら立てていないから。
それが一番の理解者である彼女にすら説明できない理由。そして、この葛藤は誰にも伝えられず、僕の胸の中で燻っている。
僕の気持ちを理解してくれる大切な人には、理由が伝えられなくて。
理由を話せる友人は、僕の境遇とは別の立ち位置にいる。
結局は僕自身が消化するしかないのだけれども、未だにそれが出来ていない。
だから苦しい。
本当はショパンを弾きたい。
彼女が好きなショパン。あの演奏と同じショパンの曲を弾いて、君の心を震わせたい。
僕が君の演奏で心が震えたように。
君と同じ世界の端っこに辿り着けたと伝えたい。
演奏で伝えたいけど、僕に出来ない。だから僕はブルグミュラーを選ぶしかない。
そう分かっているはずなのに。
分かってる。分かってるよ。失敗するのは怖いけど、ショパンを弾いて彼女の心を震わせたいんだ。良いじゃないか、それくらい夢を見たって。
自分への弁明と抗弁。
ピアノを始めるまでの人生では、自分に期待することなんて無かった。ほどほどに頑張って、良くも悪くも目立たないようにする日々。それを急に変えたって戸惑うのは当然だろう。僕自身、成功しているイメージが湧かないんだから。
不相応な望みを抱いたからいけないのか、頑張らない人生を過ごしてきたことがいけないのか。どっちも正しい気がして、そうでないはずと思いたい気持ちがある。
明るい未来を想像できず、後悔している自分のイメージばかりが頭をよぎる。
どんな選択をしても上手くいく気がしなくて、どんな選択も選べない。
選ぶ道の正解が見えず、選択しなければならない不安。
進む道のゴールに、いつ辿り着けるのかという不安。
決めてしまったら戻れないかもしれないという不安。
不安の種を探せばキリがない。
こういう時、みんなはどういう風に乗り越えているんだろうか。
中野は、上手くいくか分からないと理解しながら、神田さんをデートに誘った。
断られたら気まずかっただろうに。ダメだったとしても、今まで通りの仲良しグループの雰囲気を壊さないと心に決めて勇気を出したそうだ。
本当に勇気がある奴だよな、中野って。思い返せば、紬や神田さんと仲良くなったのも、中野が勇気を出して行動してくれたからだった。充実した高校生活は、すべて中野の勇気のお陰だった。
あいつの勇気の十分の一でも僕にあったら、ここまで不安にならずに済むかもしれないのに。
――――いや、違う。
夏休み前に誘ってデートの日になるまで、あからさまに態度に出るほど緊張していた。話し方はぎこちなかったし、笑顔も引き攣っていたように思う。
中野は、不安でもちゃんと決めて行動しただけなんだ。
初デートまでの一週間ほどは心底不安だったに違いない。それでも周りに気を遣わせないように、いつも通りの対応を心掛けていたんだろう。自分だってきついはずなのに、周りのことを気にすることが出来る中野は大人だ。
紬だってそうだ。幼稚園の頃から頑張ってきたピアノ。
プロになりたくて頑張っていたけど、自分に才能が無いことを突き付けられて。
それでも諦めずに頑張ったけど、音大付属高校の受験にも失敗してしまった。
だからといって、周囲に当たり散らしたり、同情を買うようなことはせず、自分で受け止めていた。ふと思い出して、気分が落ち込むことがあっただろうに。それでも、明るい笑顔を振りまき、周りにいる人に元気を与えていたんだ。
失敗したって立ち上がって歩いた。歩き続けた。
それがあの発表会につながって、ピアノの先生という道につながった。
彼女が歩み続けたからこそ見つけられた道だ。
当初望んだ道じゃないかもしれないけど、今の彼女は幸せそうにしている。
きっと、挫けず歩み続けた彼女へのご褒美なんだろう。そう思ってしまう。
僕はどうだ?
中野みたいに決める勇気も無くて、紬みたいに歩み続ける根気も無い。
――――違う。そうじゃない。そうじゃないだろ。
そんな風に自分に無いものを探している暇なんて無いじゃないか。
僕にはピアノに向き合える時間は少ないんだから。
ピアノの表現力を高めたいなら、寝る間も惜しんでピアノを弾かなきゃ。
悩むなら手を動かせ! 不安なら練習しろ!
やるだけやって失敗したらそれで良いじゃないか。
紬や中野たちは失敗しても変わらずに接してくれるよ。
だったら何を怖がる必要がある? 格好悪い自分なんて、昔っからなんだし。
何より、失敗して格好悪くても笑う人はいない。
大丈夫。絶対大丈夫。
だったらやることは一つ。
ガンガン弾き込んで、自分なりの演奏をする。
何を弾くかじゃない。どう弾くか。
とにかくそれだけを考えてやってみよう。
そう決めたら、今まで悩んでいたことが砂粒のように小さく感じられて、ピアノに向かい合うことが楽しくなっていた。
※
それからというもの、ピアノに没頭する生活は日々を加速させた。
過ぎ去る時間。高まる完成度。
楽譜通りの演奏を超えた先が見えた気がする。
そう思える頃には、僕は高校二年生になっていて、発表会が目前となっていた。
去年、僕の人生を変えた発表会の季節が、またやってきていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます