いまやるべきことをやり、ほかのことはあとまわし

浅賀ソルト

いまやるべきことをやり、ほかのことはあとまわし

部屋に弟子入りしている力士の一人が言いにくそうにもじもじしていた。しかしやはり言わねばという感じで事情を説明してきた。

「親方」

「どうした?」

「えーと、実は骨髄バンクに登録してまして」

「ん?」

「骨髄バンクって分かりますか?」

梶原という力士だが、かなり気を遣った感じで聞いてきたが、『え? 知らないの?』という気持ちも消しきれていなかった。

「名前は聞いたことあるな。それがどうした?」

「自分、学生の頃に登録してまして、それで、適合する白血病患者がいるので骨髄を提供して欲しいと言われたんです」

白血病というのはなんとなく分かる。聞いたことある。

梶原は普段から物の説明がとにかく丁寧で、それはいいときと悪いときがある。

「白血病というのは骨髄の癌で、移植すると治るんですが、移植しないと絶対治らないんです」

「あー、それで、型が合うのが何万人に一人とかそういう奴か?」

「そうです」梶原は言った。「で、やろうとは思うんですが、一週間くらい入院が必要なんです。そのあとも事後の検査とかで病院に行く必要があります。自分もあんまりよく分からないんですが、安全のためを考えると一場所欠場した方がよさそうなんです。よく分からないので医者に相談しないとですが」

「うーん。分かった。考えておく」

「よろしくお願いします。事前検査が一ヶ月くらい前で、それから、何回か検査して、それで入院して、退院って流れみたいです。退院してから二週間後くらいに健康診断して、それで終わりです。全体で二ヶ月ちょっとです」

「分かった」

といいつつめんどくさいのであまり聞いていなかった。こういうのは女将がうまく采配してくれるだろうから任せようと考えていた。

前時代的と言われようと、稽古は厳しく、弟子はなにか理由をつけてサボりたがるのが相撲の現実だ。そして稽古しないと強くなれないのも現実で、サボっていると強くなれないという現実だ。当たり前の話なのだがそれが伝われば苦労はない。俺の若い頃は強くなるために必死で稽古したものだがそうじゃない力士が多すぎる。

俺の仕事は強い力士を育てること。つまりサボらせないことだ。

別に梶原がサボりたがっているわけでもないが、二ヶ月稽古もできないという話でもないだろう。結局、稽古をどれだけできて、どれだけできないのかという話である。

数日後に女将からも相談があった。

じっと対面で会話をすると俺はうまく続けられないので女将はそういうときに散歩に連れていく。歩きながらだと話ができる。うまいやり方だと思う。

近所を二人でてくてく歩き、すれちがう人に挨拶をしながらの相談だった。

「骨髄バンクの話で相談を受けたんですけど」

「ああ、話は聞いている。どういうことなんだ?」

「事前の検査は稽古に問題ないみたいよ。ただ、入院して退院してから一週間くらいは稽古もやめた方がいいという話で、入院も合わせると二週間ね」

「二週間か」

アスリートにとって二週間の完全オフというのはなかなかの長さだ。まして今は大事な時期でもある。

「長いな」

故障してもっと長く稽古ができない力士もたくさんいる。そういう理屈は分かるのだが、それでも長いと感じてしまう。こういうのは理屈じゃない。二週間も休んだら、下手をするともう相撲を取らずに離れていくことだって多い。

「別にねえ。これは人助けで、これをしなかったからって困る人がいるわけじゃないのよねえ」

「まったく。変なものに登録しやがって」

「別に今すぐってわけでもないみたいよ」

「どういうことだ?」

「やる気になったらってことみたい」

「……あと一年、様子を見てから、でもいいってことか?」

「そこまで詳しくは聞いてないけど、たぶん」

なるほど。一年、できれば二年はここからきっちり体を作りながら鍛えていく必要がある。そこからなら二週間の休みも問題ない。

ま、できれば休まない方がいいのだけど、そのくらいの休暇はあっても大丈夫だ。

「できれば二年は休ませたくない。そういう線で話を進めてくれるか?」

「分かったわ」

ということで話は決まった。

話は通した。梶原も納得したし、別にそれでいいということにもなった。適合した患者は急性白血病ではないので、すぐに移植が必要ではないとかで。

しかし梶原は稽古に身が入らなくなった。

俺は檄を飛ばした。「おい。サボるな。もっとちゃんとやれ」

「はい」

返事はいいのだが、返事だけだった。集中しろ。強くなるんだ。

やがて梶原の方から説明してきた。「集中できないです。移植を待っている患者がいると思うと、稽古とかしていることに引っかかって」

「稽古とかとはなんだ! 馬鹿野郎!」俺は思わず怒鳴ってしまった。「大事なことじゃないか。稽古より大事なことがあるか!」

「ありません。分かっています」梶原も即答だった。

「分かっているなら集中しろ。手を抜くな」

「はい」

結局、梶原はちゃんと稽古したし、その結果として強くもなった。昇進もした。二年ではなく一年後に休んで骨髄の提供もした。

やがて頭打ちになってそこで引退していった。

大関になることもなく引退する力士について、稽古とか人助けとはなんだろうと思う。

引退するときに梶原が俺に言った。

「いままでお世話になりました。けど、つい考えてしまうのは、あの移植のことです。骨髄バンクに登録しない方がよかったんでしょうか?」

そのとき俺は、咄嗟に何も言えず、完全に黙ってしまった。

俺もまた、暇があるとついそのときのことを考えてしまう。



※白血病や骨髄バンクについては会話の細部に誤りもあると思いますが、状況による人と人の会話や説明を想定して雑にしています。詳細は各自でお調べください。 https://www.jmdp.or.jp

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