7.一千一秒は遠くはるかに
「今日も、お月様がきれいですね」
「何それ、プロポーズ?」
「はい?」
男と女はアパートのベランダで向かい合ったまま、沈黙した。やがて、女が男を軽くはたいた。
いつもの光景だった。
「痛っ。何ですかもう」
「何ですか、じゃないわよ! 夏目漱石のエピソード、知らないの?」
「I love you.を月がきれいですね、って訳したらしいって言われてる、あれですか?」
「知ってるじゃないの! じゃあ、まぎらわしいこと言わないで!」
男はぽりぽりと頭をかいた。
月の美しさをうっかり称賛も出来ないなんて、何て窮屈なんだろうと思った。
へそを曲げたらしい女を見ながら、飲みかけのグラスを手にとる。シャンパンの炭酸が少しぬけていて、物足りない。
「ピザでも追加で頼みますか?」
「いい、今ダイエット中だから」
と言いながら、目の前にあるオニオンリングを爆食いしている。女とは、矛盾した生き物だ。
だがそんな彼女といるのが心地よいと思っている自分もまた、矛盾しているのかもしれない。
「近いうちに引っ越すんでしょ? 荷造りは進んでるの?」
「はい、ぼちぼち。僕は元々、私物が少ないからすぐに終わりそうです」
「そうだった。今流行のミニマリストってわけじゃないのに、どうしてかあんまりモノを買わないわよね、あなたは」
男は苦笑した。私物が少ないのは、決して意識してそうしているわけではないのだ。
「モノがあふれすぎてるんですよ、今の日本は。モノがない方が、気楽に過ごせるっていうのに」
「うーん、私はミニマリストの生き方はあんまり理解できないかも。お洋服も化粧品も、お金の許す範囲で買いたいな。そっちの方が、働くモチベーションにもなるし」
「そうですか」
「でも、あなたの生き方を否定するつもりはないけどね」
「それはどうも、ありがとうございます」
自己主張が時々激しい彼女だけれど、こちらの領域にズカズカ踏み込むことはほとんどない。だからこそ、一緒にいて心地いいのかもしれない。
孤独を、ほんの少しでも忘れさせてくれる。男にとって、目の前の女はそういう存在だった。
男はいったん部屋へ入ると、木箱を抱えてベランダに戻ってきた。
女は相変わらず、目の前の食事に集中していた。が、かたん、と妙な音を耳にし、顔をあげる。
「今、揺れなかった?」
「そうですか?」
「まさか、地震?」
「いえ、違うと思いますよ」
男は再び、夜空を見上げた。そしてなぜか、宙に向かって人差し指を掲げる。
外国にはよくある、挙手の形だ。何をしているのかと、女が話しかけようとした刹那。
男の指、数センチ先に月がある。遠近法の関係で、男が月を転がそうとしているようにも見える。
女は、目にしたものに声を失った。
男の指先で月が――月が、輪郭を無くし徐々に溶け出していったのだ。
それはバターのようだった。あるいは、夏の熱気に負けたアイスクリームのようでもあった。
女は瞬きし、目をこする。するとそこには、いつもどおりの丸い満月があった。
男は、首をかしげほほ笑む。
「どうしましたか?」
「う、ううん。疲れが出たみたい。ここ二週間くらい残業が多かったから」
「じゃあ、部屋で休みますか?」
「そうしようかな……」
今日はまだ、アルコールがあまり入ってないはずなのになあ、とブツブツいいながら、女は慣れ親しんだソファへと向かった。
「気分はどう?」
男は、誰にともなく話しかけた。先ほど持ってきた木箱の蓋は、開けられている。
「君をあの人からあずかってから、ずいぶん時間が経ったね。彼女、僕のことを同年代だと思ってるみたいだけど……実際は親子以上に年が離れているのにね」
両手を組み、頭の後ろを支える。見上げた月は、過去の頃と変わらない。
あそこは、何年か前にいなくなった兄と共に、アイスクリームを数回食べた、思い出の場所だ。
月へ昇るための例のハシゴは、見かけなくなって久しい。
ハシゴを作っていた男は、生命のことわりからはずれることなく、とわに眠ったのだろうか。
「みんな、どんどんいなくなっていくんだなあ」
そうぼやく男の体は、成人して以降加齢が非常にゆっくりになった。
それは、星を見たものが経験することでもあった。ただ、全員がそうなるわけではない。
現に男の兄は、他の人間と同じように年を取っていった。そして、天寿を全うした。
だから男の秘密を知るものは、おそらくはこの世には誰もいない。
一人ぼっちで残された彼の元には、押し付けられた木箱と、思い出だけが残っている。
夜風が頬を撫でてから、頬を流れるものに気づいた。
「ああ、もうトシなのかな……どうも最近、涙もろいんだよなあ」
「何をぶつぶつ喋ってるの?」
後ろから突然声がかかり、男はあわてて木箱に蓋をした。
ぼすっと、頭に何かがかけられる。以前、女からもらったブランケットだ。
「いや、何でもないよ」
こっそり涙をぬぐってから、男はいつものように微笑んだ。
両膝に乗ったままの木箱が、カタリ、と音を立てる。
チーズを口にしながら、女が唐突に言った。
「そう言えばさ……親戚のおばさんが、長い間幻覚に苦しんでるって聞いたことあるの。ずっと病院に通ってたけど、どうあがいても治らなかったんだってさ。でもね、おばさんが見る幻覚って、大抵幻想的なの。月へ伸びるハシゴとか、古びたガス灯から金粉が出てるとか」
「……へえ」
男は平然と返しながら、シャンパンを口に含んだ。
「もしかして、さっきのはわざと私に見せた?」
男は盛大に噴き出し、シャンパンが盛大に宙を舞う。
「ちょっと!! 汚ないでしょ!!」
女は文句を垂れながら、ウェットティッシュであちこちを拭く。数度咳き込んだ男は、何とか息を整え、口元をぬぐった。
「全然隠せてないね。動揺しすぎじゃない?」
「いや、その……なんと言えばいいのか」
「この町に昔からある、都市伝説みたいなものでしょ? 何十年か前に星が落下してきて、でも被害はゼロ、怪我人は一人もいなかった。その代わり、ヘンなものを見てしまう住人が続出した……って」
「へえ、今ではそんなふうに語られているんですね」
「小学校の頃に、そういうお話が好きな友達がいたの。それで知ってるだけ」
女は腰かけていた椅子ごと、男のそばへと移動した。そのまま、男にぐいと顔を近づける。
「あ、あの……?」
「あなたが何者かは知らないし、何を知っているのかもわからないけど。引っ越しついでに私と縁を切るのだけは、絶対に止めて」
計画を言い当てられ、男は目をそらす。
「あなたも変わってますね。僕のどこがいいんですか? 他にも友達は、たくさんいるでしょう?」
「私だって、私に聞きたいくらいよ。どうしてあなたといると、落ち着くのか」
諸々の態度は乱暴だが、あれで心は落ち着いているのか――男が疑問を抱いた時。
身を離した女は、空を指さした。
その先には、満月。
「どうしました?」
「今日のお月さま、すっごくきれいよね」
その直後、女が再び近づいてきた。互いの唇が軽くふれあう。
思い出したのは、兄と食べたお月様のアイスクリーム。
女は再び目をあわせると、とびきりの笑顔になる。
――口づけは幼い頃の思い出よりも甘い、ささやかな愛の味がした。
星と月とにまつわるふしぎな物語 永杜光理 @hikari_n821
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