第15話 バレントが囲った「美しい愛妾」
辺境騎士団員らが揃って朝一番の鍛練を行う騎士団屯所の鍛練場。
この日は珍しく、そこにエリーゼの姿があった。隣には、どこか神妙な表情のバレントが立つ。珍しい夫婦のツーショットに団員らが内心で驚きの声を上げていると、さらに目を疑う奇妙な『もの』が差し出された。
深緑にも紫にも見える泥濘色で、粘着性のある液体状の『もの』が並々と注がれた、大きなジョッキが各々に手渡される。
「諸君も知っての通り、我が妻っ、エリーゼの出自は、代々王族の覚えもめでたい、癒しのフォンタール一族だ。これは彼らが毎日口にして頑健を維持している『
団長バレントの朗々とした声が、彼と同じく強張った面持ちの辺境騎士団員らの間に響き渡る。妻の単語に照れくささが頭をもたげて殊更力が籠るが、団員らは示された不可解な物体のせいで、そこに反応する余裕は持たない。
そう、エリーゼがミシェル辺境伯家で耕作に成功し、念願かなって作り始められた『
それでも独特すぎる見た目には、本能的な嫌悪と恐怖が沸き上がる。平静を装うバレントも、未だ口を付ける際は、妙にそわそわした心持になるのだ。
「皆さまの身体に合うものかを確認したいので、まずは二口、お飲みください! わたしがまず飲みますから、それに続いてください」
エリーゼが、団員と同じジョッキを頭上に高く掲げる。それでも躊躇する団員のため、安全を主張するつもりで「毒を疑われる方は、わたしのジョッキと交換いたしますから遠慮なく仰ってください! 最初が怖いのはだれでも一緒ですから、恥ずかしいことではないですよ」などと微妙なことを付け加えたお陰で、団員らは頬を赤らめて怯えた素振りも見せられなくなったのだが、当人は無自覚だ。
「では行きます! せーのっ!!」
エリーゼの音頭と共にジョッキに口を付けた団員らだったが、殆ど全員一口目がやっとだった。だが課せられたのは二口だ。思い切って二口目のジョッキを唇に当てている間に、ほんの数人だが具合の悪くなる者が居た。そんな者の反応を目敏く見つけたエリーゼは、彼らを衛生兵の控える休憩場所に案内し、決して無理をさせることはしなかった。
「まれに体質に合わない人もいるんです。フォンタールの家族は大丈夫でしたけど、神殿の使用人の中には飲むと気分が悪くなったり、頭が痛くなる人も居ましたから。理性や感情じゃない、身体自身が拒絶を表わす人も居て、その人にとっては害になってしまう食べ物もあるんです。だから、初めての人はちょっとだけ試して様子を見なきゃいけないんです」
重要な意味を持つ試金石代わりの試飲を、エリーゼは大切にしていた。ここを疎かにすると、ただの食物が「毒」になってしまうことを、これまでの経験でエリーゼは理解している。――そう考えたところで、ふと、最後に見たガマーノ伯爵を整えた時の姿を思い出した。
柔らかい腹に広い範囲で浮きあがった、紅斑の浮腫。
(あのとき現れていたのも、身体の拒絶反応だったわね。今となってはどうしようもないけれど……)
取り返しのつかない過去のことよりも、追放された自分を受け入れてくれる、今の居場所と取り巻く人々を護るために、力を尽くしたい。そう強く思うエリーゼは、もう一度、見落とすことが無いように、注意深く騎士たちの反応をじっくりと見渡した。
結果として、この日、鍛練場に居た約200人のうち2名が体質に合わないことが分かった。だから先に宣言した通り、残りの者がこれ以降エリーゼの
屋敷の者も含めて、毎日230人分近くの
辺境騎士団が、何故か急に筋肉の付き具合が良くなり、強健になった――と、誰もが認識できるようになった頃、不思議な噂がトルネドロス領中で流れ始めた。
「領民想いの犯罪者エリーゼは獄死した」
「バレントは、妻の喪が明けないうちに美しい愛妾を囲った」
なぜこんな嘘がまことしやかに領内、しかも領主館の在る中心街でもっとも多く囁かれているのかと、当事者である2人を大いに悩ませた。
「いや、仕方ないんじゃないです?」
夫婦そろっての、執務の合間のティータイム。深刻に話し合っていた2人に向かって、ミルマがけろりと言う。呆れた視線を向けつつも、エリーゼの新作デトックスティーをカップに注いで行く。
「どういう事だ? 100歩譲って領民想いのエリーゼはまだ良いが、獄死などしていないし、そもそも牢獄に繋いでもおらん! だから喪など無いし、愛妾なんて話がどうしたら持ち上がるんだ!」
憤然と声を上げるバレントを、エリーゼがまあまあと宥める。
「わたしが領民想いだなんて、光栄すぎます。まぁ、死んだと言われているのは、連日の刺客と、安全のためにこのお屋敷から出ないことからそう憶測されたんでしょう。けどなんで愛妾なんて話になったのかしら? このお屋敷にまるで別の誰かが居るみたいな言い草ですよね」
彼女も心底訳が分からない様子で首を傾げている。ミルマは「まったく、この似たもの夫婦は……」と、大きなため息をひとつ吐くと、手にしたシルバートレーを、エリーゼの前に掲げた。
「奥様、よっくご覧になってくださいね!? このお盆の中に居るのは、どこのどちら様でしょう!?」
「ミルマ? 何をふざけたことを言ってるの。わたしが映っているわ」
「そうだな。いつもと変わらないエリーゼが居る」
「―――だめだ、この夫婦……。身内の変化は解りにくいにしたって、限度があるわよ……」
そろって不思議そうな反応をする夫婦に、ミルマは頭を抱える。
トレーには、規則正しい3食をよく噛んでゆっくりと食べ、夜は十分な睡眠をとり、昼間は農耕や辺境騎士団の衛生部に混ざって治療の仕事に精を出した結果――すっかり、いや「スッキリ」と痩せたエリーゼの姿が映っていた。
「強いて言えば、髪の色が黒いのが以前と違うかしら」
「そうだな。父上からの依頼の染粉の試用中だったな」
「はい! お世話になってますから、わたしの薬草の知識で応用できる事でしたら応えたいですもん」
すっきり痩せて、白いものが混じり始めた辺境伯の髪染め粉試用のため、黒髪となったエリーゼ。
「屋敷以外の人が見たら、10人が10人、別人だって言うに決まってるじゃないですかぁー」
ミルマの嘆きも、似たもの夫婦は何のことか分からぬらしく、揃ってキョトンとした表情を向け合うのだった。
見た誰もが他人と認識するエリーゼの変化。
そのおかげで、本当にエリーゼが亡くなったものと各所に認識されたのか、彼女を狙う刺客の侵入も無くなっていた。
そんな時だった、トルネドロスの外れ――隣国マイセルとの国境付近で傭兵らに襲われる商隊を、辺境騎士団が救ったのは。
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