東大下暗し
増田朋美
東大下暗し
その日も暑い日であった。全くなんでこんなに暑いんだろうなと思われるほど暑い日であった。何処かでは台風が来ると騒がれていたが、杉ちゃんたちの静岡県では、何もなかったらしく普通に過ごしている。それが良いのか悪いのか、よくわからないけれど。
その日、杉ちゃんたちの居る製鉄所に、浜島咲が一人の女性を連れてやってきた。製鉄所と言っても、鉄を作る工場ではなくて、勉強や仕事をするための部屋を貸し出すための福祉施設であり、重い事情を持っている人が、来訪することも珍しくなかった。そんな人達を受け入れることができるというのも、また福祉なのかもしれない。
「えーと、今日来訪されたのは、小寺美和さんですね。浜島咲さんの紹介でこちらをお知りになったということですが、現在の職業は何でしょう?」
ジョチさんは二人を応接室へ通し、とりあえず椅子へ座らせた。
「はい。今は仕事をしていなくて、病気の治療をしています。」
と、咲が言った。
「はあ、治療とは、なんの治療をしているのですか?」
と、ジョチさんが言うと、
「ええ、何でも精神疾患だそうです。あんまり口に出して言えない病名なんです。それもかなり重度の。」
と、咲は答えた。
「わかりました。病名を口にしたくないというのはよくあることですから、敢えて聞かないでおきますよ。それでは、これからどうするかを考えて行きたいのですが、まず初めに、なぜ精神疾患に陥ったのか、その理由を簡単に話してくれませんか?」
ジョチさんがそう言うと、
「ええ、何でも東大に入りたくて、一生懸命勉強をしていたようですが、受験の日に熱が出てしまって、それで受験できなかったそうなんです。それ以来、症状が出るようになったと彼女から聞きました。」
と、咲は答えた。
「なるほど。それで家で何もしないで居るのも確かに嫌ですよね。テレビも見てもろくなものをやってないし、音楽聞いてもなにか収穫が得られるわけでもないですしね。」
ジョチさんがそう言うと、
「はい。必要なものは、みんな、売りに出してしまったので、うちにはテレビも何もありません。それがみんな私のせいでだめになってしまったのが、申し訳ないというか。本当に自分のせいでだめになったんだなと。そんな気がして、もうどうしようもないのです。家にある必要なものは、例えば、ピアノとか、そういうものは、みんな私が通っていた塾や家庭教師とか、そういうものに使ってしまいました。もう私が合格しなかったので、家族はみな借金の返済で忙しくて、私のせいで、もう家の中はめちゃくちゃです。」
と、小寺美和さんは言った。
「まあねえ。お前さんのせいでっていうのもわかんないわけじゃないけど。でもねえ、それをいつまでも考えてちゃいかんよ。早く新しい居場所を見つけてだな。お前さんも自分の人生を歩いていかなくちゃならないな。一度全部ぶっ壊れてしまうと、修復するのはなかなか難しいと思うけどね。逆にぶっ壊れたら、直せばいいと言うことでもあるわけで。簡単なんだよ、実は。」
応接室にカレーを車椅子で持ってきてくれた杉ちゃんがそういうことを言った。杉ちゃんという人は、すぐに人の話に入ってくるくせがあるのであった。それは誰にも止められることではないので、止めないでいた。
「ほらあ、悩んでいるやつは、大体腹が減っているんだ。何か食べればまた楽しくなれるよ。」
杉ちゃんに言われて、小寺さんはスプーンを受け取り、カレーをたべはじめた。そして、
「美味しい!」
と思わず言ってしまうほどのうまいカレーであった。薬には頼らないと主張する杉ちゃんの作ったカレーはものすごく美味しいのであった。
「それでは、利用してもらうに当たって、注意事項を申し上げますね。利用時間は、10時から17時まで。お昼は、何処かで買ってきた弁当を食べてくれてもいいですし、ご自身が、持ってきたものを食べてくれてもいいです。あるいは、杉ちゃんのカレーでも、全く構いません。」
ジョチさんは彼女に製鉄所で過ごすためのルールを説明した。そして毎日来てくれる人もいれば、週に一度とか、月に一度くらいの頻度で来る人も居る。いずれにしても、来訪したときに、利用料を払ってくれれば、それでよいと伝えた。小寺美和さんはありがとうございますといった。
「じゃあ、本日より、好きなように使って頂いて大丈夫ですから。他の利用者が迷惑じゃなければ、利用者と喋ってくれてもいいです。特に条件はありませんから、気軽なレンタルスペースの様なつもりで使ってください。」
ジョチさんはそう言って、小寺美和さんを食堂へ連れて行った。カレーのお皿の始末は杉ちゃんがした。
ところが食堂に入った小寺美和さんは、何をしたらいいのかわからないという顔で、杉ちゃんたちを見た。
「一体どうしたんだよ。好きなことしていいと言ったはずだぞ。」
お皿を洗いながら杉ちゃんがそう言うと、
「いえ、ただどうしたらいいのかよく分からなくて。」
と彼女は答えるのであった。
「どうしたらいいかって、お前さんが好きな事すればいいんだよ。何じゃやりたいこと無いのかよ。」
杉ちゃんが言うと、
「はい、やりたいことは受験が終わってからやればいいって、家族も、学校の先生も言っていて、そのとおりにしなければならないと思ってましたから。」
と、彼女は答えた。
「まあそうかも知れないけど、お前さんは、もう東大は無理なんだろう?それなら、自分の好きなことをして過ごせばそれでいいんじゃないか?」
と、杉ちゃんが言うと、
「でもそんな事、考えたこともありません。東大へ行ったら、何でもできるからって、それまでやりたいことは全部我慢しようって思いました。」
と、小寺美和さんは答えた。
「だから、何もしないで、勉強をする以外、何も考えられないんです。本当に何をしたらいいか、私は、よくわかりません。」
「ほんなら、お前さんの頭の中は、本当に空っぽなんだね。」
杉ちゃんは彼女をからかうように言った。
「本当はね。それじゃあ行けないんだぞ。やりたいことをたくさん頭の中に持って、それに打ち込んでいくのが、健康な若者だぞ。それだから、高校時代は部活漬けだったとか、そういう言葉が出てくるんじゃないかよ。それがないってのは、やっぱり問題だよ。」
「そうですね。私は、たしかに勉強をとってしまったら、本当に何もやることがない。残ったのは、学校の先生に叱られて、塾の先生にも叱られて、家庭教師の先生にも何だこんな問題もできないのかって叱られた経験だけです。そんなものがなんの役に立つんでしょう。本当に、無駄な人生を過ごしてしまったんですね。」
と、杉ちゃんに言われて、彼女はとても恥ずかしそうに言った。
「まねねえ、お前さんは、精神疾患になって、何にもできなくなっちまうほど追い詰められたんでしょ。それだって、立派な経験になると思うよ。それで、いいんじゃないの?」
と、杉ちゃんが言った。
「でも私に何ができるんでしょうか?」
美和さんが言うと、
「まあでもさあ。東大へ行きたい気がしていたんだったらね。それができるということは、かなり頭の切れるやつ、まあお前さんにしてみれば試験の点数を稼ぐだけで何も意味がなかったと思うけど、でも、その点数を稼ぐ事ができれば、東大に行けることも知ってる。だから、そこをなんとか商売に変えることもできるんじゃないかな。」
と、杉ちゃんが言った。
「そうなんでしょうか。私なんてなんにも役にたたない存在に過ぎないと思うけど。」
美和さんが言うと、
「まあ、そう思う気持ちもわからないわけじゃないけど。でも、お前さんだっていつまでも落ち込んでいるわけには行かないでしょうよ。だから、なにかできることを見つけて、それをしていかないとね。それが人生ってもんだから。誰かが代理でやってくれるという人生はそうは行かないからねえ。僕も、ずっと和裁やってるけどさあ。僕にできることはそれしか、無いからね。」
と、杉ちゃんは言った。
「だけど、一つあればそれを頼りにして生きていけるんだ。まあ、一番手っ取り早いのは、衣食住に関すること。」
「あら、医療とか、福祉についている人が、一番偉いって、学校の先生は言ってましたけど?」
美和さんはすぐに言った。
「いやあどうかねえ。そういう仕事ついている人より、人間の基本的なところに関わるほうが仕事に着きやすいよ。その医療とか福祉に付く人が偉いというのは、とんでもない間違いで、偉いやつであろうが馬鹿なやつであろうが、誰でも腹は減る、着物を着る、家に住むでしょう。そっちの方を、優先するべきだと思うよ。」
と、杉ちゃんは言った。
「そうなんですね。でも私は、もうできることもなくなってしまいました。衣食住にまつわることも、分からないし、ひたすらに受験勉強しかしてこなかった。だから私の人生もうおしまいです。」
「いやあ、学校で失敗したことで、人生は決まらないよ。学校ほど役にたちそうで立たない宗教は無いから。僕の意見では百害あって一利なしだ。それより、ドロップアウトできてよかったじゃないか。衣食住、親に頼りっぱなしで、まるでホテルに泊まっているような生活をしているやつばっかりの東大生になりたかったか?そんなやつの何処が立派だというんだろうね。そういう生活するより、ちゃんと自分のことは自分でして、それで生活できるってことは、すごい名誉なことだと思うんだけどねえ。」
杉ちゃんがカラカラというと、美和さんは、そうなんですかと小さな声で言った。
「そういうことがわかるというのは、またすごいことだと思うけどな。東大生なんてどうせ碌なもんじゃないよ。頭は良くても、衣食住は、まるでできない、そういう変なやつばっかりじゃないか。そういうやつらを偉いと思う奴らだってろくなもんじゃないのさ。だから、お前さんもそうならなくてよかったなと思って、生き抜けばそれでいいの。いい大学行って、いい会社に入るのが人生じゃない。そういうことをするよりも、毎日のことを自分でちゃんとやれるってことのほうがよっぽど幸せだよ。それに僕から言わせて貰えば、お前さんは社会からはじき出された人間の気持ちも知ってるじゃないか。何が人生はおしまいだよ。終わりは、始まりでもあるんだぜ。それをちゃんと頭の中に入れておくことだね。そういう小さなことを心を込めて実行できるってことが一番幸せなんだってことを、お前さんは学ぶためにここに来たと思えや。」
「そうなんですね。私は、どうしても、東大に行くことしか考えてなかったから、衣食住なんてどうでも良かったけど。」
美和さんがそう言うと、
「だったら、ここに来てさ、そういうことは間違いだなと言うことを、学習するといいさ。大事なことは、よほど悪いことが起きたときでないと学習できないんだよ。だから、今はつらくてもね。何か学ぶために、あるんだと思ってよ。まあ、つらい気持ちはどうするかと疑問が発生することもあると思うが、そういうことは、それを職業にしているやつも居る。」
杉ちゃんはそういった。
「つまり、カウンセリングとかそういうものを受けるんですか?私、ああいう人達は好きではありません。偉い人のように見えるけど、なんか人をバカにしているというかそういう気持ちになってしまうんです。それに、そういう人って、すごいお金を取るんでしょ。なんか人の悩みを聞くのに、そうやって大金を取るという姿勢にも納得できない。それって本当に市民のためになっているのかしら。そうじゃないような気もするわ。」
「そうだねえ。まあ、でも、今の日本社会では、悩んでいることを積極的に聞こうという人はいないから、大金払ってカウンセリングに行くか、一人で何も言わないでずっと一人で我慢していなければならないか、そのいずれかで、決めるのは自分だよ。それを忘れるな。」
美和さんがそう言うと、杉ちゃんはすぐに言った。
「へえ、車椅子に乗っている方はそういうことも言えるのね。」
美和さんはちょっと嫌そうに言った。
「まあ、誰かが言わなくちゃ、何も前に進まないからね。誰もが間違ってると知っているのに黙っているんじゃ、それでは、誰も進めないじゃないかよ。まあ言うのはね、偉い人とか、すごい人しかできないように思われているけど、そういうやつが一生懸命警鐘鳴らしても大体の人が身につかないんだったら、それなら誰か一般人が言う必要があるな。それで僕が、言ってるわけ。いいか、死んでからわかったんじゃ、遅すぎるんだぞ。自殺すれば何でも解決するってことは、絶対になく、更に課題を大きくするだけだ。それだけで、何もかっこよくはないよねえ。」
「そうなのねえ。なんだか、そういうことを大事にしろと言われても何もパッとしないけれど、、、。」
「まあ、たしかにパッとしないけどな。でも、それがだいじなことでもあるんだよ。」
杉ちゃんがそう言うと、四畳半からピアノの音が聞こえてきた。ああ、また水穂さんがピアノを弾いてるなと杉ちゃんが言うと、小寺美和さんも、何を弾いているかわかった。
「ショパンですね。ピアノ協奏曲第一番。」
「そうだけど。」
杉ちゃんが言うと、
「勉強しながらよく聞いていました。わあ、こんなところで生演奏が聞けるなんてなんという幸運でしょう。」
と、小寺美和さんは、ピアノの音がする方へ行ってしまった。全く、大事なときに邪魔するんだなと杉ちゃんは言ったが、水穂さんが弾いているのを邪魔するわけには行かないのでそれ以上言えなかった。
小寺美和さんは、四畳半に行くと、すぐにふすまを開けてしまった。多分挨拶するというのを知らないのだろう。そして、ピアノを弾いていた水穂さんの顔を見て、
「まあ!なんて素敵な人でしょう!」
なんて言ってしまうのである。水穂さんはピアノを弾いている手を止めて、
「ありがとうございます。」
と、頭を下げた。
「随分お上手ですね。すごい素敵な演奏です。あたしも、少しピアノを習ったことあるんですけど、ショパンのピアノ協奏曲ってすごく難しいんでしょう?それが弾けてしまうなんて、すごいじゃないですか。」
とてもうれしそうに、小寺美和さんは水穂さんに言うのだった。こういうものには関心があるというのは、頭でっかちな人にありがちなことでもある。
「そんなにたいした演奏ではありません。演奏家としては全く大したことないです。こういう仕事は、なんの役にもたちはしませんよ。まるで、何でもいろんな人がやってくれるような贅沢三昧の生活をしているように見えるけど、そういうことができる人ばかりでは無いですからね。」
水穂さんは、小寺美和さんの表情を見て言った。
「そうなんですか?私には、そういうすごい生活ができて、すごい人のように見えるけど。」
美和さんがそう言うと、
「いいえ、なんにもすごい人ではありません。ただ、演奏しろって言われてしているだけのことです。協奏曲やるにしても、指揮者が作りたい音楽に飾りをするようなものですよ。ソロ演奏だって、結局は、すごいオーバーアクションして、観客に伝えられるような演奏をしなくちゃいけないんです。それが、どんなに苦痛であるか、あなたにはわかるはずもない。それなのに、みんな身を削ってそういうことに憧れるんですよね。」
水穂さんは、大きなため息を付いた。
「よく偉い人が、音楽のすごいこととか言ってますけど、あれは大嘘。演奏家なんてね、自分の能力を活かすとかそういうことは全然できないんですよ。とにかく、生活していくために、ピアノを弾くことだけです。それだけですよ。」
「そうなんですか、、、。私は、多くの人に勇気を与えられてすごいと思いますけれど。」
美和さんは、びっくりしてそういうことを言うのであるが、
「何にも大したことありません。曲だって、作曲家が生活のために描いたもので、演奏家はそれを再現すればいいだけのことですよ。それになんで体を壊すまで、打ち込むんだろう。そしてなんでもう後戻りできないところまでいってしまったんでしょうね。若いときは、そういうことも知らないでずっと、演奏に打ち込んで来ましたが、今になってそれがたいしたことないことにようやく気が付きました。」
水穂さんは苦笑いして言うのだったが、それと同時に偉く咳き込んでしまったのであった。それを見て美和さんは更に驚いたようで、
「ど、どうしてそういう事に!」
と言ってしまったのであった。水穂さんが咳き込みながら枕元においてある吸い飲みを指差すと、美和さんは急いで、それを取って、彼に渡した。彼はそれを受け取って、中身を飲み込んだ。そこは成功したのであるが、その後で激しく咳き込んでしまい、吸い飲みを落として割ってしまった。
「あーあ。またやったのねえ。まあ、新しいものは買ってくるけどさ。お前さん何回壊したり畳を汚したりしたら気が済むの。」
ちょうど四畳半にやってきた杉ちゃんに言われて、水穂さんはやっと咳き込むのをやめてくれて、
「ごめんなさい。」
と、言った。
「だってあなたが悪いわけではないわよ。それは確かじゃないの。あれだけの曲を弾きこなせるほどの能力があるんだし、決して平凡な人じゃないわ。あなたの演奏で勇気づけられたひとだって居るのよ。」
美和さんは驚きを隠せないような顔でそういったのであるが、
「まあ灯台下暗しだな。身分が高いやつは、本当のことを知っているようで実は知らないということでもあるんだな。はははは。」
と杉ちゃんは言った。美和さんは、水穂さんにもう横になったほうがいいと言った。そして、彼を布団の上に寝かしつけて掛ふとんをかけてやったのであった。
「ああ、そこまでできるんだね。それならお前さんは、まだ正常だな。それは、お前さんが一度追い詰められたり居場所をなくしたりした経験があるからだ。そこを、うまく生かしてなにかできるといいね。それができるといいなあ。」
杉ちゃんは美和さんを眺めながら、そういうことを言ったのであった。
東大下暗し 増田朋美 @masubuchi4996
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