車窓

quark

車窓

 梅雨の湿気を肺が吸ったのか、バス停の人々は皆何か重たげな表情である。バスが来た。水飛沫をまともに食らった男が怒号を上げるが、その声はすぐに鈍い鼠色の空に消えていった。乗車口が開き、次々に人が吸い込まれてゆく。最後に乗りこんだのは、黒い合羽を着た少年であった。少年の名前はAといった。

 車窓には大雨によってキャンバスが形成されていた。Aも何かを描こうと指を走らせるが、アイディアは一向に出てこない。ガラスの水滴を、Aの指が吸っていくだけの時間がずいぶん経ち、バスは次のバス停についた。

 まるで灰色の街に革命を起こそうとしているかのような、真っ赤な合羽が入ってきた。彼女はAのすぐ前の席に座った。Aの鼻を異国風の香水の匂いがくすぐる。目の前を突如として覆った深紅が刺激的過ぎたのか、それとも香水がきつかったのか、Aはガラスから指を離して俯いてしまった。そうなればもうAにやることはないから、バスの揺れに身を任せているうちに、Aは眠ってしまった。沈鬱な空気に満ちた車内でもすやすやと眠っている彼を、隣に座るくたびれたスーツの男性が羨ましげに眺めた。

 次にAが起きたのは、目の前で聞き慣れないメロディが鳴ったときである。顔を上げると、先ほどの赤い合羽の女が同じく聞き慣れない言語で電話をし始めた。電話はすぐに終わった。おそらく外出する約束でもしたのだろう。彼女は携帯を鞄にしまうと、車窓にてるてる坊主を描いた。それを見たAは小さな衝撃を受けた。自分が幾ら時間がたっても出来なかったことを、彼女はいともあっさりとやってのけたからである。

 次第にAの心を覆うものは衝撃から焦燥へと変わっていった。しかし、焦れば焦るほどアイディアは出て来なくなってしまう。既に、Aの中ではガラスに何らかの事物を描く作業は、水を掴み取ることと同等の難しさを持っていたのである。

 そうやって劣等感に苛まれているうちに、また次のバス停についた。Aの胸に、湿っっていた肺を絞られるような苦しい不快を与えた張本人を含む多くの乗客が降車口に消えた。代わりに、長い髪を後ろでしばり無精髭を生やした男が乗ってきた。

 男はAのすぐ隣に座ると、車窓に微かに残る無数の線を見て、少年に話しかけた。

「これは少年が描いたのか?」

Aは狼狽した。話しかけられるとは思っていなかったからだ。Aにとって、梅雨のバスは水中であり自分と男は別々の泡に入っていたからである。とはいえ、無視するわけにもいかないから、Aは適当に返答した。

「はい」

「具体的な形でないことには何か意味があるのかね」

男がまだ話そうとしていることに対して、Aは幾ばくか落胆した。未だにアイディアを出せていないことへの焦燥と、それを抉るような質問が作用して、Aの声は少し怒気を孕んだ。

「いいえ」

その口調で、男も大方の事情を察したらしい。

「そうか。実は俺も似たような状況に陥った経験がある」

そう男が言うと、Aの心から男への鬱陶しさが消えた。話を続けることで、苦しさが打開される希望が微かに見えたからである。男は自分の発言の瞬間にAの目が少し見開いて、一瞬だけ睫毛が頬に落とした影が消えたのを見逃さず、すかさずこう言った。

「周りで見つかる絵を真似すればいいんじゃないか?

ほら、すぐ前の席の窓にてるてる坊主があるじゃないか。消えかけだが」

 Aは男の言葉が信じられなかった。これ程悩んできたのに模倣を推奨されたことが信じられなかった。先ほど見えた淡い希望は、自分をぬか喜びさせるための罠でしかなかったとまで感じた。

「そういうアドバイスではなくて、僕が、自分の指だけで絵を描くためのアドバイスが欲しいんです」

あぁ、本当に過去の自分を見ているようだ。男はそう思った。

「悪いが一旦何を書けばいいのか解らなくなったら、もう自力だけで描くのは無理だ」

「どうしてです?世の中には幾らでも真似せずに描ける人がいるじゃないですか?」

瞬時に少年は反駁した。男への信用はほとんど失われていた。

「そいつらのどれだけが本当の意味で自力で描いている?そもそも自力とは何だ?」

男の問いはAを黙らせるには十分だった。Aは答えられなかった。唯一解ったのは自分が自力で書いていないということだった。

 次のバス停はすぐだった。Aはここで降りなければならなかった。未だに何を描いたら良いのか、何を描けば良いのかは浮かんでいない。もどかしさの中で男に別れを告げる。

 閉鎖から放り出されて一瞬気分が和らぐが、ぱちぱちと音を立てる合羽が意識を現実に引き戻した。雨はその威力を少し弱め、道路は空を映す鏡で埋め尽くされていた。その一つを目を凝らして見つめると、小さな雨蛙が泳ぐのが見えた。

 Aは男の言葉を少し理解した。

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